ハルビンで避難民生活をしていたから、敗戦直後の日本の風景については知らない。

戦後、引き揚げ船の中で『リンゴの唄』を聴いて悲しい衝撃を受けて以来、日本は私にとって遠い国になっていた。が、青森に住むようになってからは、いつかは東京に行くという希望を抱いていたから、東京がテーマの歌はみな輝いて見えた。

『夢淡き東京』『浅草の唄』『東京の屋根の下』などは好んで歌っていた。特に美空ひばりの歌は別格で、ひばりの歌は子供たちにとっての一種の応援歌であり聖歌であった。

そんな私にとって大事件に近いことが起きた。

小学校五年生の時だった。バッハやヘンデルの写真の飾られた音楽室でのことだった。音楽の先生は、ベートーヴェンの交響曲第六番『田園』の各楽章の内容について説明してくれたあと、教壇に据えた蓄音機のターンテーブルに黒いレコードを載せ、それを回し、針を置いた。

「私の知る満洲の風景を描写していた」

スピーカーから流れ出てきた音楽の美しいこと! こんな素晴らしい世界があるのか。第一楽章、田園に着いた時の楽しい気持ち。第二楽章、小川のほとり。第三楽章、収穫と人々の集い。第四楽章、雷と嵐。第五楽章、牧歌、嵐のあとの喜びと感謝。

全曲聴き終わった時、私は机にうっぷしたまま顔を上げられないでいた。私はぼろぼろに泣いていたからだ。教室の仲間たちには笑われたが、私は得も言われぬ幸福感にひたっていた。

なかにし礼『愛は魂の奇蹟的行為である』(毎日新聞出版)

なにが私をして泣かせるほどに感動させたのか。それはベートーヴェンの『田園』がまったく私の知る満洲の風景を描写していたからだ。第一楽章も第二楽章もあの通りだ。特に第三楽章では、夏の終わりごろの満洲の田園風景が目に浮かぶ。農民たちは大麦や小麦、トウモロコシやコーリャンを収穫して大いに喜ぶ。そこへ雷が鳴り稲妻が光る。満洲の雷は日本のそれのように穏やかなものではない。稲妻だって地平線全体を貫くように幾条も走り落雷する。まさにこの音楽のようにだ。

そして嵐のあとの静けさと平和。満洲国を作って暴れ回った日本人が引き揚げていったあとの満洲いや中国東北部の人々は今やその幸せを満喫しているだろう。そう思うと、泣けて泣けて仕方なかったのだ。小学五年生でそんなこと思うかと人は疑う。その人は子供の意識に無頓着すぎる。加害者意識というものは子供にも歴然としてあるのだ。

これが私のクラシック音楽へのめざめだった。

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