日本の観客とのコミュニケーションを短期間で会得
新日本プロレスには88年から92(平成4)年まで約5年間、在籍。ジャパニーズ・スタイルのプロレスとサイコロジー――試合における観客とのコミュニケーション――を短期間でマスターし、トップ外国人選手のポジションに立った。
ベイダーが目撃した新日本プロレスは、昭和から平成、リング上の主役が猪木から長州力、藤波辰巳(90年より「辰爾」)、さらに武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の“闘魂三銃士”世代へとバトンタッチされた時代だった。89年4月、史上初の東京ドーム興行『格闘衛星★闘強導夢』では王座決定トーナメント戦(1回戦で蝶野、準決勝で藤波、決勝で橋本)を制してIWGPヘビー級王座を獲得した。
平成元年は猪木が参議院選出馬――当選により新日本プロレス社長を勇退、坂口征二が引退――新社長就任という“政権交代”が起きた年で、坂口とジャイアント馬場の対話路線から新日本プロレスと全日本プロレスの団体交流がスタート。90年2月、新日本プロレスの2度めの東京ドーム興行ではベイダー対スタン・ハンセンの両団体のトップ外国人選手の対決が実現した。
この試合は両者リングアウトの痛み分けという結果に終わったが、おたがいのプライドをかけたひじょうに高いレベルでのプロレス哲学の交錯が、いまなお語り継がれる名勝負を生んだ。筆者が『週刊プロレス』(№363=1990年2月24日号)に執筆した試合リポート記事(漢字づかい、送り仮名、カタカナ表記も原文のままとした)から引用する。
交流戦と呼ぶにはあまりにも壮絶
ベイダーハンセン、ザ・頂上決戦
東京ドームのリングで団体交流戦をもっとも強く意識していたのは、天龍でもなければ長州でもなかった。ビッグバン・ベイダーとスタン・ハンセンは、新日本、全日本の看板外国人という立場以上に、日本をホームリングとするアメリカ人レスラーの代表として、極限状態に近い緊張感を持ってリングに上がってきた。
大物ガイジン同士の対戦というと、まったく期待はずれの凡戦か各選手のキャラクターを適度に楽しむ顔見せのどちらかになってしまうのがふつうだが、ベイダーとハンセンのぶつかり合いは、日本人対決以上に日本的な神経戦だった。(中略)