渋沢栄一は、転身のたびに大きな挫折感を味わいますが、高崎城襲撃計画を断念して以降、ただ情熱に任せて行動するだけではだめだと気づいたのでしょう。
【大木】他の志士の中にも、倒幕は目的ではなく国難を克服するための手段に過ぎない。大切なのは、その後どんな国をつくるかだと考えて行動していた人たちも数多くいた。渋沢栄一もその1人だったと思いますが、その後の行動は確かに他の志士たちとは違います。
農民出身ゆえに気づいた理不尽さ
【安岡】渋沢さんが17歳のときの有名なエピソードがありますね。父親の代理で地元・岡部藩の陣屋に行ったとき、500両の御用金を出すように命じられ、自分は父の代理でご用向きを聞いてこいと父に言いつけられたので、父に報告しますと言うと、すぐにこの場で承知したと挨拶しろ、とさんざんに罵られた。このとき封建的身分制度の理不尽さへの疑問が生じたといわれています。
【大木】このあたりから、単に幕府を倒すだけではだめで、身分制度ではなく、一人ひとりが持つ資質や能力で評価され、活躍できる社会がみんなにとっていい社会では、と考え始めたのでしょうか。
【安岡】その時点で、そこまで一足飛びに考えたかどうかは分かりませんが、その後の渋沢栄一の転身ぶりを見ると、そういった考え方で行動していたように見えますね。それを決定づけたのは、やはりヨーロッパ行きの機会に恵まれたことでしょう。
【大木】渋沢さんが、すでにそんな風に考えていたとすると、「坂本龍馬暗殺の真犯人は誰か」みたいな本を読み漁ってきた僕は一体何をやってきたのか、わからなくなってしまいます。龍馬が暗殺され、薩長が、これからいよいよ幕府と戦争するために鉄砲や大砲をどうするって騒いでいるときに、渋沢さんはすでに髪を切り、タキシードを着てパリの下水道の見学をしていました(笑)。
パリを目の当たりにして租税・貨幣制度を改革
【安岡】銀行家と軍人とが同じテーブルで対等に商談をしているのを見て、「わが意を得たり」と喜んだりもしていたわけですから、ずいぶん違います(笑)。
渋沢さんは、パリに行き、資本主義のシステム、それによってもたらされた産業の近代化を目の当たりにして、日本も同じように産業を興して経済を発展させ、国を豊かにしなければならないと確信して帰国します。そのことを熱く説いても、周りの人たちにはなかなか理解してもらえない。そんなもどかしさは感じていたと思います。