でも、とにかく新しい国をゼロからつくる仕事、要となる大蔵省で租税制度の改正、貨幣制度改革、銀行条例の制定、国家予算の基本となる歳入見積もりのための統計づくりなど重要な仕事に奔走します。そして、この経験を次の実業家への転身に活かしていきます。
渋沢が気づいた「日本の弱点」
【大木】渋沢栄一は、辞職の理由について、日本が最も弱いのが商売で、これを盛んにしないと日本は豊かになれない。だから自分がそれをやろうと考えたと言っている。安岡先生がおっしゃった世の中全体を見渡してみんなの利益のために必要なことをやるという考え方ですね。
【安岡】意見の相違もあるし、ウマが合う合わないといったこともあったと思いますが、渋沢さんは私情に流されず、客観的に見て道理にかなうか、公益になるか、と常に考えて判断し、行動していたように思います。
【大木】大久保利通は嫌いだけれど「君子の器」を持ち合わせた人だとか、西郷隆盛は賢いとか愚かを超越した将に将たる「君子の器」とか、渋沢さんが人を見て評価する拠り所も、また『論語』だったということですか。
農業・工業・商業を見て育った
【安岡】現代と違って、あの時代にある程度教育を受けている人は、藩校や寺子屋で、子どもの頃から四書五経を素読していました。その中心が『論語』です。
【大木】素読って、時代劇などによく出てくる、子どもたちが先生の後について「子曰く、~」と声をそろえて音読する、あれですか。
【安岡】そうです。言葉の意味が理解できなくても、幼い頃に音で繰り返し身体に入れることで自然に覚えてしまう。成長して内容が理解できるようになると、『論語』の物事の考え方や人間関係の築き方などを自然と身につけられる学習法です。
渋沢栄一の生家は豪農で、小さい頃から父親や従兄弟について古典を学んでいます。また農家といっても藍玉や養蚕が中心だったので、図らずも藍を栽培する農業、藍玉をつくる工業、売り歩く商業と3つの産業を営む家でした。その後の生き方を見ると、やはり生い立ちが大きく影響していると感じます。
両親や年長者を敬い支えることは、「孝」という儒教の基本的な徳目です。渋沢さんは、さまざまな経験を積み重ね、その経験を通じて能力を磨き、知恵を身につけていったのでしょう。