自分の基準が正しいと信じる怖さ

ここで、ちょっと疑問に思いませんか? なぜ、ブッダはこんなにも悪い人の特徴に詳しいのでしょうか。

それは、悟りに至る過程で人間の心の作用を深く観察したからです。ブッダをブッダたらしめた所以ゆえんの1つは、この観察による客観性でした。

客観性。

これは仕事でもよく聞くキーワードですよね。マーケティングや企画の立案時には、必ずと言っていいほど触れられます。うまくいくプランはこの「客観性」が十二分に考慮されているものが多く、反対に「客観性」を欠いたものは往々にして失敗しがちです。

「○○君は一生懸命なんだけど、客観性が足りないね。思い込みは捨てなきゃ」なんて言われたことはありませんか。

私もマンガを描くときや法話をするときに、よくダメ出しをされます。自分が描きたいことや伝えたいことが先走り、つい独りよがりの内容になってしまうのです。

人は無意識のうちに自分の基準=世間の基準だと勘違いしがちです。「善悪」に対する評価も、自分の基準で判断すると逆転してしまうことがあります。

妙な言い回しになりますが、「正しい悪」や「正しい卑しさ」を見分けるためには、客観的な物差しが必要です。

ブッダに善悪の基準について切り返された司祭はドキリとしたでしょう。自分の価値観で人の善悪を決める行為は、ブッダの言う「誤った見解」を信じること、つまり卑しい行為そのものなのです。

ちなみに、このエピソードの最後では、横柄な態度をとった司祭はブッダの言葉に深く感服し、弟子入りを申し入れています。

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