土地も財産も社会的地位も「持たざる者」だった

——格差社会において切り捨てられた層の問題は、現代の中国でも日本でも深刻です。しかし,清末の広西はさらに桁違いにひどい状況だったのでしょうか。

安田峰俊『現代中国の秘密結社 マフィア、政党、カルトの興亡史』(中公新書ラクレ)

【菊池】はい。当時の広西は漢民族にとってのフロンティアで、移民社会でした。より早い時期に移住した人間は、いい場所の土地を握り、年月を経て宗族(父系の血族関係が発達して形成された大規模な相互扶助組織)を形成し、科挙合格者を輩出して──と、どんどん強くなっていく。いっぽう、1820~30年代になってから入ってきたような、客家はっかなどの後発の移民たちは、土地も財産も社会的地位も、あらゆる面で「持たざる者」でした。

太平天国の広西出身の兵士たちは、長江流域まで攻めのぼるまで、銀貨を見たことがない者がいたという記録があります。当時の中国は銀経済なのに、貨幣として銀をやりとりする機会すらない生活水準の人たちが、太平天国軍に加わっていたのです。

撮影=菊池秀明
太平天国揺籃の地、金田鎮の1989年の姿。市場に沿って流れる紫荊水をのぞむ。

——現代風に言えば、格差に絶望した最貧困層による、反エスタブリッシュメントの反乱だったわけですね。だから儒教の礼拝施設を破壊するし、漢民族の理想の時代を「取り戻す」と、滅満興漢のスローガンをとなえた。

【菊池】とにかく自分たちの生存空間を確保する必要があったのでしょう。1852年に上帝会が用いていた祈祷文には「上帝のおかげで日々衣服と食物をえられ、災難をまぬがれることができますように」といった表現もあります。日々着るものもない、食にも事欠く、このままでは生きていけないほど貧しい人たちが、救いを求めて集まった部分があります。

キリスト教もマルクス主義も「中国化」される

——上帝会はキリスト教の影響を受けています。しかし、教義には中国南方の民間信仰やシャーマニズムが入り交じり、また科挙落第生である洪秀全の経歴も関係してか(儒教施設の破壊をおこないながらも)儒教の影響も大きかったようです。

【菊池】きっかけは外来の思想です。しかし、受容の過程で一種の「中国化」がおこなわれた。言い換えれば、中国的な土着のコンテキストのなかで読み替えられることによってこそ、中国の社会で幅広く受容される救済思想としての性質を持ちはじめるわけです。このように外来思想を中国化して読み替えることは、洪秀全に限った話ではなく、例えばもうすこし時代が下ってからの孫文にしても同様でした。

撮影=安田峰俊
孫文。写真は台湾の中国国民党がタイ華僑の団体に寄付したポスター。

——孫文は『三民主義』のなかで、中国南部の宗族が他の宗族と械闘(武力抗争)をおこなう際に見せる強固な団結ぶりを紹介したうえで、中国の国民は「『国族』を作るべし」と呼びかけています。これなども、欧米由来のナショナリズムを広東人の常識に読み替えているわけですね。

【菊池】孫文は共和や大同といった儒教の概念も盛んに持ち出しています。ところで、この手の中国的な読み替えを最もうまくやったのが毛沢東でした。毛沢東は非常に田舎くさい人物でしたが、それだからこそマルクス主義をあそこまで「中国化」することができたし、それゆえに人々から受け入れられたのです。