母を生かしたいのか、殺したいのか。どっちなんだ、私は。

繰り返し、繰り返し「今からでも病院に行くべき?」という思いがよぎっては消える。「外から不自然な手を加えて、それで1日、ひと月、1年と、長く生きることに意味があるのか?」との1人問答が延々と続いていく。

ある時は、苦しそうな姿を見ていられなくなり、母の鼻と口を覆えば、母は楽になるのか? という誘惑にかられた。そうかと思えば、母の足が異様に冷たくなりかけると必死に温めて、その命を長らえさせようとする私がいた。

生かしたいのか、殺したいのか。どっちなんだ、私は。

写真=iStock.com/Amornrat Phuchom
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母は結局、1カ月近く経ったある日の夜半に旅立った。葬儀が過ぎ、50日祭(仏教の49日に当たる神式行事)が済んでも、私の心は重かった。耐え切れず、看取りの時にお世話になった看護師さんを訪ねて、こう聞いてみた。

「(延命措置をしなかった)私の決断は正しかったですか?」

延命措置をしなかった決断は正しかったのだろうか?

彼女は「判断する立場にはない」と言いながら、こう答えてくれた。

「ある高齢のご婦人の話をしますね。自宅でその時を待っていたその方は点滴を拒否されました。終末期の点滴は血管が脆くなっているので、漏れたり、刺す場所も見つけられなかったりで、刺し直しは激痛を伴うからです。

でも、ご家族は『最後まで治療を諦めないで!』と懇願されました。それでそのご婦人は、必要最低限の点滴をゆっくり入れることに同意され、やがて旅立っていかれました。『家族が望むならば、そうしましょう』というご希望だったのです。これはこれで、ご家族全員が納得された結果でした。

りんこさん、『死』は『死』であって、それ以下でも、それ以上でもないです。『良い死』『悪い死』というのもありません。そこには家族にしか分からない家族の思いがあるだけです……」