アメリカの鉄鋼、自動車では

セオリーは何であれ、自ずから限界がある。セオリーと言われると、「いつでも、どこでも通用する」と思われやすいが、そうではない。囲碁将棋や野球においても、支配的セオリーは時代と共に変わる。

経営もそうだ。たとえば、クリステンセンはアメリカ鉄鋼業において、高炉メーカーが電炉メーカーに押されて市場を失っていく歴史を見た。

低品質・低価格の電炉メーカーが、棒鋼という下位市場からスタートし、順に高質の鋼板市場に向けて市場を上向し、高炉メーカーの市場を次々に奪っていったのである。彼は、低価格メーカーが高品質メーカーを駆逐するこのケースを、重要なセオリーの表れと考えた。

それまでにも、アメリカではそれに似たケースはいっぱいあった。

ホンダがアメリカ二輪車市場において、ブリキのおもちゃのようなバイクから始めて、徐々に高級バイク市場へと進出し、結局は王者のハーレーダビッドソンを限られた超高級市場に追い込んでいったケース。 あるいは同じアメリカ市場で、自動車でトヨタがアメリカのビッグ3を追い詰めていったケース。

あるいはテレビや音響機器で、日本の家電メーカーがアメリカの家電メーカーを破綻に追い込んだケース。ディスカウントストアの出現と共に、百貨店やチェーンストアが衰退した小売業のケース。

こうした事例に照らし合わせると、「低価格市場に独自の技術体系をもって参入する新参企業に、既存企業が対抗できない」というセオリーが打ち立てられそうだ。「業界構造の破壊的革新」のセオリーとでも言うのだろうか。そして、先に述べた事実群を背景に、そのセオリーの内実が論理立って説明される。 クリステンセンの論理はこうだ。業界固有の取引構造(バリューネットワーク)がある。その業界の完成製品は、いくつかの部品から構成され、それら部品はそれぞれの部品メーカーによって生産される。そこに幾多の部品取引が生まれる。それらが寄り集まって、業界固有の取引構造となる。

自動車やパソコンを思い浮かべればよい。末端部品に至るまで、幾多の取引市場が成立する。その業界構造は、強制力のある均衡にある。誰かの利益を損なわずして、その構造は変更されない。