「女としてはどうか」という愚問
時間は、ただの時の流れではなくて、寿命の一部である。一部とはいえ、こんな闘争に、命を懸けて取り組む価値など、欠片もない。過去のよく知りもしない人が勝手に作り上げてきた男性原理を覆すなんていうことのために、自分の、有限でしかない時間を、惜しみなく注ぐ気になど到底なれない。
そのうえ、たとえアウェイで勝ったとしても、そのインセンティブはたかが知れている。そこで業績をあげ、「勝負に勝った」としよう。その結果得られるものの乏しさときたら、むなしいものだ。女のくせによく頑張りましたね、と男性から苦々しげにまばらな拍手を送られるだけ。一般の理解を得られる可能性はほぼない。
たいていの男性研究者が取れないノーベル賞を、2度も受賞したキュリー夫人ですら、「妻として、女としてはどうだったのか」などという記事が今でも出てきたりする。剰え、業績でなく容姿で評価されたりもする。受賞から100年以上たった今ですら、女としてはどうか、などと言われるのである。
アウェイはアウェイ
いずれにしても、その苦闘とその成果がそのまま受け入れられることはない。つまり、勝負を受けて立ってもそれに勝っても、アウェイはアウェイなのだ。
勝ったところで、後続の女性陣に対して「あなたたちも頑張れば名誉男性になれるのよ」といわんばかりの姿を恣意的に強調され、その努力を搾取して成立している男性原理のプロパガンダとして、いいように使われるのがオチだろう。
驚くべきことに、「こんなに活躍されて、ご主人はかわいそうですね」と面と向かって私に言ってくる男性がまだいる。この人の話は面白いので何度でも口にしてしまうし、どこにでも書いてしまう。実名をさらされたらいやだろうからそれは礼を重んじて黙っておくが、“ご主人”の珍しい性格を知りも調べもしないような人がよくいうな、と思う。
この方は妻が自分よりも不出来でなければたちまち自信喪失してイライラし始めるような「かわいそうなご主人」なのだろう。自分の不幸の原因に自ら気づくことができないのは、それ自体が不幸なことだ。