隣組は連帯や絆を深めるものとして褒められていた

隣組は大政翼賛会の末端組織なんですが、そのパブリシティがよくできていて「隣組」という歌があったんですよ。「トントン・トンカラリと隣組/格子を開ければ顔なじみ/回してちょうだい回覧板」ってね。これが大ヒットして、隣組は連帯や絆を深めるようなものとして受け取られていたけど、あれは戦時中の同調圧力だったんですね。ボスたちも含めて相互に監視する組織だった。

あるいは「パーマネントはやめましょう」とか「贅沢は敵だ」といったコピーがあって、銀座にハサミを持って出ていくご婦人方がいたんです。そして、長袖の着物を着てると袖を切った。つまり長袖の着物を着るような女性は、非国民扱いだったんです。

撮影=尾藤能暢
作家 五木寛之氏

――戦時中もいまも、やっていることは同じなんですね。

【五木】ただ戦前には、「サンカ」と呼ばれる山の漂泊民のように、日本国籍を持たない日本人がたくさんいたんですね。彼らは、自由自在に血液のように日本列島の中を横行して、情報や物資を運びながら経済活動を支えていたわけ。道路が整備される前は、行者の通り道や塩の道、猟師の獣道という裏街道が山ほどあって、そういったところを通って、日本中を移動していました。富山の薬売りもそうです。鹿児島の薩摩藩は、よその連中を絶対入れなかったんだけど、富山の薬売りだけは出入り自由でした。

ところが近代国家を整備していく過程で、日本の政府は移動、放浪する人びとに厳しく制限を加えていきました。彼らは国民の三大義務を放棄していると見なされたからです。まず、戸籍に入らないから徴兵にも応じない。第二に、義務教育を受けない。第三に税金を払わない。この三つを国家としてきちんとやるためには、定住していない人がいるのは困る。そこで明治以来、日本に住んでいながら日本国籍に属していない人間を取り締まり、戸籍に入れるようにしていきました。

その最後の仕上げが、昭和27(1952)年にできた住民登録制度です。僕が大学生のときには、その反対運動などもやりましたが、それ以後、日本人は住民登録をして、住民票を持つことになりました。だからマイナンバーは、近代国家の悲願なんですね。