安倍政権の「評価」に乗り出した政治学者たちに欠けているもの

今回、安倍晋三首相が辞任表明をし、一斉にメディアは安倍政権の評価をし始めた。ここでは、いわゆる政治学者たちが「さあ、俺たち、私たちの出番だ!」と、張り切っている。

ところがこの政治学者たちは、自分に関心のある個別の政策を取り上げて、ここが足りない、あそこが足りない、ここが問題だと文句を言うばかり。自分がこれまでしこたま勉強してきて頭に詰め込んでいる知識を、どかーっと吐き出すことに必死になっている感じだ。

「俺って、私って、こんなことまで知ってんだよ。偉いでしょ?」というように。

政治家だって人間だ。100%完璧な人間なんていない。しかも政治家が担う仕事は、そうは簡単に解決できないような難題ばかりだ。

ところがメディアや学者たちは、政治家は魔法の持ち主で、どんな難問でも簡単に解決する力を持っている(それなのにその力を発揮していない)ということを当然の前提にしているように思われる。

なぜそんなことになるかというと、政治学者は、政治を「お勉強する」だけで実践の裏付けがないからだ。僕から言わせれば、政治なんて実際にやってナンボのところがあって、彼ら彼女らは政治をお勉強だけしていて面白いんかな?と思うけど、まあ政治学者たちはそれを好き好んでやっているのだからこれ以上とやかくは言わない。

橋下 徹『橋下語録 前に進むための思考』(プレジデント社)

ただ、国家だなんだと大きなことを言わなくても、町内会・自治会レベル、またはPTAレベルや子供たちのクラブ活動レベルでも、十分に「政治」はできるのだから、一度そのレベルでもいいので「政治」というものを実践すればいいのにと思う。そうすれば、本からは絶対に得られない「政治」の本質というものを少しでも理解できると思う。

政治を実践したことのない学者たちが、お勉強した政治をどこで使うかと言えば、結局、政治に対してとことん文句を言うことくらいしかない。しかも自分の人生をすべて捧げてきた政治のお勉強なので、そりゃとことん政治に文句を言って、自分を際立たせることでしか自分の人生に納得できないだろう。

だから、そういう人たちが集まる場では、際立った政治批判というものが脚光を浴びる。それがいわゆる「論壇」っていうやつなんだろう。そこには、国民はどう思っているのか、という視点はまったくない。

メディアとは、民主国家において国民と政治をつなぐ重要な役割を担うものだ。ところが今のメディアは、このような政治批判に血眼になっている政治学者と政治をつなぐことに血道をあげている。その政治学者たちの政治批評や論壇が多くの国民から支持を受けているかどうかにはまったく関心がない。

するとこういう問題が起きてくる。政治学者の世界で際立ち、政治学者の世界で評価されている議論や意見を、メディアが大きく取り上げる。実は国民からはまったく支持されていないかもしれないのに、メディアはそれがさも国民全体の意見であるかのように取り上げてしまうのだ。

(略)