まだ事故の原因はわかっていない。それでも飛行機を毎日飛ばさなければならず、手を休めるわけにはいかなかった。厳しくも楽しかった仕事に、怖さが加わった。「目の前の仕事をこなそう」と小林は自分に言い聞かせるしかできなかった。

「一生胸に刻み付けている」事故報告書の一節

事故から2年後、運輸省(現・国土交通省)が航空機事故報告書をまとめ、公表した。

報告書によると、墜落事故の原因は「機体の亀裂」だった。圧力隔壁にあるリベット付近の亀裂が致命傷だった。墜落事故の約1年前に行われた「C整備」(1週間ほどかけて重点的に整備・点検すること)で、その亀裂を見つけられなかった。

報告書では「14~60%の確率で亀裂を発見できた可能性がある」と書かれていた。小林は「自分が、事故機の整備の場にいたとしたら、亀裂を見つけられただろうか」と自問した。

筆者撮影
機体を磨く小林氏

その報告書に、小林が「一生胸に刻み付けている」と話す一節がある。

「航空機の整備技術の向上に資するため、目視点検による亀裂の発見に関し、検討すること。航空機の構造に生じた亀裂の発見は、目視点検によって行われる場合が多いが、目視点検によってどの程度の亀裂が発見できるかについては、現在十分な資料がない状況である。我が国において運航されている輸送機について目視点検による亀裂の発見に関する資料の収集、分析を行い、航空機の整備技術の向上に資する必要がある」

「整備士としてできることは何でもする」

アルミニウム合金製の機体に亀裂なんて起きるはずがない。無意識に、頭の中でそんな思いがあったのではと自戒した。小林はそれまでの思い込みを捨てることから始めた。

JALは整備士を機体ごとに担当を割り当てる「機付整備士制度」を取ったこともあり、担当する機体の機材故障を丹念に調べる毎日だった。同僚と競うように機体を磨いた。一等航空整備士として、JALのフラッグシップ機、ボーイング747を担当するまでになった。海外旅行が当たり前となり、扱う機種はどんどん増え、技術革新が進んでいった。それでも、機体の異常の兆しを見逃さない、という思いが変わることはなかった。

「整備士としてできることは何でもする、当時はそんなふうに思っていました」と小林。ホノルル駐在時は1日19便もの飛行機を受け入れ、早朝から機体に張り付いた。2000年代に入ると、JASと統合するため、全国各地の空港を飛び回った。