一国二制度、崩壊の背景は夢が実現したから

香港返還の発端は84年の英中共同声明である。同声明は、中国は香港では社会主義の制度と政策を実施せず、外交と防衛を除いて香港に大幅な自治権を与え、資本主義制度と生活様式も50年変えない、と定めた。いわゆる「一国二制度」だ。

この方針は90年に全人代で採択された「香港(特別行政区)基本法」に引き継がれて、中国本土では認められていない言論・報道・出版の自由、集会やデモの自由、信教の自由などが認められ、香港司法の独立性も保護された。

この香港の「高度な自治」を保障してきた一国二制度と「港人治港(香港人が香港を治める)」が、香港国家安全維持法によって脅かされるのは確実で、同法の成立直後に香港国際機関やNGO、報道機関に対する管理も強化していくという。

香港返還の発端は84年の英中共同声明である。同声明は、中国は香港では社会主義の制度と政策を実施せず、外交と防衛を除いて香港に大幅な自治権を与え、資本主義制度と生活様式も50年変えない、と定めた。いわゆる「一国二制度」だ。

この方針は90年に全人代で採択された「香港(特別行政区)基本法」に引き継がれて、中国本土では認められていない言論・報道・出版の自由、集会やデモの自由、信教の自由などが認められ、香港司法の独立性も保護された。

この香港の「高度な自治」を保障してきた一国二制度と「港人治港(香港人が香港を治める)」が、香港国家安全維持法によって脅かされるのは確実で、同法の成立直後に香港の民主派活動家は活動を停止したり、グループを解散したり、海外に脱出した者もいる。

中国政府が香港国家安全維持法の導入を強行した背景には「香港基本法第23条」問題がある。

「国家反逆、国家分裂、反乱扇動などの国家安全を脅かす行為と外国政治組織・団体の活動および関係樹立を禁止する法律を香港が自ら制定しなければならない」

同法第23条はこのように規定している。しかし、これに対する香港市民の反対は根強く、いまだに実現していない。現状のままでは反政府活動を合法的に抑え込むことは難しい。そこで香港国家安全維持法の導入に踏み切ったのである。

もともと香港の一国二制度は英中共同声明に基づいて返還から50年後の2047年に終わると決まっている。つまり、一国二制度はあくまで中国が香港の主権を回復するまでの過渡的な“方便”にすぎないのだ。

この方便の考案者は、当時の中国の最高指導者である鄧小平といわれている。そもそもは台湾との統一交渉の“方便”としてひねり出されて、それが後に香港とマカオの主権回復のための統一方針にもなったのである。

香港返還交渉のトップは、鄧小平とマーガレット・サッチャー英首相だった。当初、イギリスは租借条約の更新を目指していたが、鄧小平が一国二制度を提起したことで香港の現状維持が確約され、結果、“鉄の女”と呼ばれるサッチャーは返還に応じた。「鄧小平の叡智えいちに感心した」とサッチャーは述懐している。

文化大革命後に経済が疲弊し、当時、世界最貧国の1つに数えられていた中国を立て直すべく、鄧小平は改革開放路線に舵を切った。鄧小平が描いた香港の役割は中国の近代化の“水先案内人”として中国の発展を先導してもらうことだった。眩しい香港の繁栄のお裾分けが欲しいから、裏庭の深圳(当時は人口30万人の寒村だった)を上海とともに経済特区に指定したのだ。