自然界からわれわれは人の言葉では得られない教えと体験を学びます。お坊さんの言葉による説法は、どこか人ごとに聞こえてしまいます。これに対し、新型コロナウイルスや震災、洪水、津波といった自然界からの働きかけは、ほとんどが突然にやってきて猛威をふるい、言葉以上のものを示唆してくれます。

みなさんにも苦しいことはあるでしょう。そのときに悩んだ末、死ねば楽になると考える人もいるでしょうが、そう考えている時点では、まだ余裕があるのです。たとえば、戦火の海で命の危機に晒されている人たちは生きることに必死で、悩んだり、死んだりしたほうが楽だなどと考える暇さえもないでしょう。災害など切迫した状況のときも自殺者は減り、通常の生活に戻って余裕が生まれると、自殺者が増えるといわれています。3度の食事をちゃんと食べる余裕がなければ、悩むための頭は機能しません。悩むことができるのは、それだけ余裕があるともいえます。

そもそも自ら命を絶つことは仏教では殺生に当たります。基本的に仏教では自他の弁別がなく、一体のものであると考えます。自分というものは、その体も思考も他に支えられて、相互に依存し合って存在しているからです。命を絶つことは、その関係性を絶つことになるわけです。もっといえば存在の本当の関係性は、みなさんの中に命としておられる仏様との関係です。ですからそれを断つことは仏様を殺めていることになるのです。仏様からいただいた命のご縁を自分から断ってしまうからです。それでも仏教では、亡くなられた方は自死の方もすべてがあの世で仏様に生まれ変わるのですが、だからといって自ら命を絶っていいわけではありません。

最後は一人ぼっちであがくしかない

死にたくなるような辛さの背景には孤独があります。人生の最初と最後は極限の孤独の状態でしょう。母親のお腹から1人で産道を通って生まれてきますが、脳が発達していないため、寂しいとは思いません。ただ、無意識にギャーギャー泣いているだけです。また、人生の終わりにさしかかると、やっぱり孤独です。人間の生存のあり様は、いくら仕事に忙殺されようが趣味に生きようが本質的には孤独なもので、それを死から目を背けるのと同じように紛らわしているだけです。

お釈迦様は生まれて間もなく、すくっと立ち、西のほうへ向かって7歩歩き、「天上天下唯我独尊」とおっしゃったといわれています。これは、お釈迦様だけが「天上天下唯我独尊」なのではなく、諸個人みんなが「唯我独尊」であり、一人ぼっちなのです。しかし、一人ぼっちであるからこそ、他者と交流を深めるのです。1人では不足だから他者の助けを借り、他者からの影響を受け、いろいろなものを学ばせてもらい、人と交流しているのが人生なのです。

誰もが基本は孤独です。その孤独をよくよく承知している私のような者は、他人の孤独がわかります。ですから、死にたくなるような孤独を感じたら、私の元へ話をしに来てください。

それでも最後に頼りになるのは、自分しかいないことを忘れてはいけません。命を絶ってしまえば、何もかも終わってしまいます。あなた自身の生きたいという生命力を信じることです。言葉を超えた、火事場のくそ力のような、ありえない力が湧いてきます。私も、もうダメだという瞬間が、何度もありました。そういうときに何か妙な知恵が湧いてきたりするものです。だから諦めずにせいぜいあがき、大いに悩めばいい。それをできること自体が元気な証拠です。健全であるならばあがけるはずだし、悩めるはずだし、孤独に耐えられるはずです。

(構成=吉田茂人 写真=石橋素幸)
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