死にたいと悩むのは本当は余裕があるから
絶望は早いうちに済ませなさい。このように私はアドバイスすることがあります。失望や絶望に対する免疫を獲得しておけば、人生の悲劇的状況に陥っても乗り越えやすくなるからです。
親が不仲なために喧嘩の絶えない家庭に育った私は、10代の頃に家出や2度の自殺を企て、親に一生懸命に抵抗を繰り返していました。そのようにあがくことで、後に人生でピンチに見舞われたときには経験則を生かして乗り切ることができました。
私は日本の大学を卒業後、パリ大学に留学し、帰国後、いくつか職を替え、バブル期には給料の高さに惹かれ、大手ゼネコンに中途入社。40歳前に結婚、高級マンションに移り住みましたが、バブル崩壊。リストラ、離婚、業界仲間の自殺、大借金……と度重なる苦難を経験しました。そして、阪神・淡路大震災、数人の友人が圧死しました。
心の底が抜けたような虚しさを感じていたときに、心のよりどころになったのが大阪の“坊主バー”でした。会社勤めをしながら夜は時々、坊主バーのバーテンダーとして働きました。が、交通事故に遭い、一命をとりとめたものの復帰までに時間がかかったこともあって、会社を辞めました。それまでに一生懸命あがき続けた末に仏門へ入ろうと思ったのです。
人の死は病気であれ、交通事故や犯罪被害であれ、予想だにしなかった形でおとずれることがほとんどです。日頃は己の死と向き合いたくないと目を背けているものですが、新型コロナウイルス禍という事態に直面したことで、死に対するリアリティが生まれました。特に志村けんさんが亡くなったことで、死がさらに身近なものになりました。欧米のように都市のロックダウンをしなくても、おとなしく自粛に甘んじたのも、死がより身近なものになり、直視せざるをえなくなったからでしょう。