たとえば、親の価値観を押しつけられてきて息苦しかった、ということで自分は毒親育ちですという人の場合、女の子らしくすることを強要されて嫌だった、勉強ばかりさせられたなど、確かに子にとっては苦痛があったかもしれない。
けれど、親だって子どもが社会に出たときに困らないようにと考えて、心を鬼にして、子どもをしつけなければという使命感があったでしょう。子が初めて出会う愛情の対象が親だとするなら、初めて出会う不条理の体現者もまた親なのです。
毒親なのかどうかが判然としないようなケースでは、たしかに子側があまり良い印象を持っていない以上、親はいたらない親ではあったのでしょう。
しかし、そもそもほとんどの親は、いたらない親なのではないでしょうか。今もし自分も親となって、子を育てていく中で自分の親のようにふるまってしまうことに苦しさを感じている人がいたとしたら、自分の傷の深さを見つめ、それを癒すところから始めてみてほしいと思います。
「自分を育て直す」毒親育ちの宿命から解放される方法
自分の傷の深さを見つめてそれを癒すといっても、癒された経験の少ない人には、どうしていいのかまるでわからないものかもしれません。
傷ついて育った人は、人を傷つける方法は何通りも学んできているでしょうけれど、人に愛情を注いで癒す方法については学んできていないからです。もちろん、そんな状態では、自分を愛してあげるなんていう芸当は至難の業でしょう。
とはいえ一方で、愛情をちゃんと注いでほしかった、という気持ちはずっと抱えてもいます。自分を一人の子どもとしてちゃんと愛して、育て直してほしかった、と、心の奥底で信頼できる人を探しているのです。
時にはその役割を、恋人やパートナーに求めてしまうこともあるでしょう。自然な恋愛感情以上の何かを相手に求めてしまい、それが得られないと世界全体から拒絶されたような絶望感を味わってしまう、という人は、相手を対等なパートナーとしてではなく、かつて子ども時代に自分を愛してくれるはずだった人の代わり、と無意識にとらえている可能性があります。
どんなときも、24時間365日、自分を見つめて、愛して、可愛がってほしい——この要求は、恋人やパートナーにするものではなく、本来は親に対して向けられる要求だったはずのものです。
求めすぎると「重い女」「束縛する男」に……
しかしながら、それは満たされることがなかったために、恋人やパートナーをその代理として、自分自身を育てなおそうとする。これが、いわゆる「重い女」や、「束縛する男」の一側面なのだろうと思います。
傷ついた子どもを心の中に住まわせている人にとって、恋人は対等な恋人ではなく、自分を愛してくれるはずだった“ママ”の代わりなのです。
しかし、大人としての社会生活のある恋人やパートナーに、24時間365日自分だけを見ていてほしい、と要求するのは、かなり酷な話です。時には相手の犠牲を愛の証として要求するような人もいます。