日本の歴史上に残る「人間vs虫」の戦いの跡

駆除で殺した害虫を供養して立てられた虫塚が、各地に多く存在する。最古の虫塚は、東京都八王子市の臨済宗南禅寺派の廣園寺にある。廣園寺は1390(康応2)年に開山した古刹だ。虫塚は創建当時に立てられたと伝えられている。

日本最古の虫塚。八王子の廣園寺にて(撮影=鵜飼秀徳)

19世紀に編纂された地誌『新編武蔵風土記稿』では、廣園寺の虫塚についてこう紹介している。

「往古相模国に虫多く出、耕作の害をなせしゆへ、廣園寺開山に願ひ、虫を此所にあつめて塚とせしゆへ、この名ありと云は、よっきたることもふるきことなるべし」

解説をするとこういうことだ。

廣園寺が開かれた14世紀末のこと。田畑の収穫時期になると大量の虫(バッタやウンカなどと想定される)がつき、生育の妨げになっていた。村人たちはそれを憂い、なんとか被害を抑えたいと廣園寺の住職に祈祷を頼んだ。

住職が、「それは難儀。悪い虫を退治しよう」と祈祷を始めると害虫は、ことごとく死に絶えたという。しかし、害虫とて生きとし生ける存在。村人は後生を弔うために死骸を集めて廣園寺境内に埋葬した。そして、再び虫による被害がでないようにと石塚をつくって祈願したのだ。

虫塚は高さ90cmほどで、ロケットのような形状をしている。この形状は、繁栄の象徴である「男根」との説もある。害虫を撲滅し、豊穣をもたらし、人類の繁栄につなげたいとの願いがこの虫塚には込められているのだろう。

「天保の大飢饉」の元凶は、主に害虫だという説が有力

いつの時代も庶民は農業を脅かす害虫に苦しめられてきた。例えば1732(享保17)年に起きた「享保の大飢饉」や、1833(天保4)年の「天保の大飢饉」の元凶は、主に害虫だという説が有力だ。

享保の大飢饉の場合、その年の梅雨が長引き、冷夏になったのとウンカが大発生したことが発端である。ウンカとは小型バッタのような形状をしている。稲の茎や葉に取り付き、水分を摂取し、稲を枯らしてしまう。

戦後、農薬を使った駆除の普及により、害虫被害は抑えられてはきている。だが、いまだにウンカの被害(坪枯れ)は珍しくはない。

享保の大飢饉では、数十万人の餓死者を出したとも伝えられている。特に天保の大飢饉の際には、大騒動にも発展した。「大塩平八郎の乱」などが勃発し、コメの不作からくる財政難とも重なって幕府権力が大きく揺らぐ要因ともなった。稲作をいかに安定させるかは、農村のみならず、時の権力にとっても一大事であったのだ。