東京の男女が子育てを始められないのは当然だ
上昇志向な子育てが行き届き、男性も女性もキャリア志向になった現在では、男女を問わず大学や大学院への進学率が高まっている。そのうえ雇用の流動性が高まり、キャリアやアイデンティティがはっきりと固まる時期も遅れがちなので、パートナーを選び、子どもをもうけようと考えていられる適齢期は非常に短い。
たとえば大学を卒業し、最も順調にキャリアを積んだ女性が結婚や出産について考えていられるのは、おそらく20代の後半から30代にかけての短い時間だけだ。30代になってからようやく結婚や子育てを意識しはじめ、残された時間の短さに慌てる人もいる。最も順調にキャリアを重ねていてさえこうなのだから、20世紀の終わりから急増した非正規雇用の立場に置かれた若者が子育てを決断する難しさは、推して知るべしである。
子育てにかかるコストが増大し、リスクも増大し、子どもをもうける適齢期がたった10年かそこらしかない以上、子育てを始めない、始められない男女が続出するのは当然というほかない。子育てに至らない東京の男女は、資本主義と社会契約のロジックによく馴染み、そのとおりに考え、自分ではリスクやコストをまかないきれないと判断しているわけで、決して不条理なことをやっているわけではない。
少子高齢化という視点で見れば、東京の合計特殊出生率の低さは破滅的な数値だが、資本主義と社会契約のロジックに誰もが忠実で、それに基づいた子育て観を持ち、コストやリスクを負担しきれないと判断した者が合理的に子育てを避けているという点では、このような通念や習慣の徹底を象徴している。
「貧乏の子沢山」は現代人で起こり得ない
“貧乏の子沢山”などというのは、今日のありうべき秩序、資本主義と社会契約のロジックをしっかり内面化していない、いわば非―現代人にしか起こり得ないことである。東京とその周辺に住まう人々の大半は、そうした現代の秩序とロジックをよく内面化しているため、みすぼらしい子どもが巷にあふれるようなことはない。
かりに“貧乏の子沢山”が起こったとしても、騒がしい子どもが大人の世界を侵犯することを許容しない私たちと、社会の制度が、そのような状況を決してそのままにしておかない。子育ては、資本主義と社会契約のロジックに基づいて行われなければならない営みに変わってしまったからだ。