東京の合計特殊出生率は1.21で、日本で最も子どもが生まれない街だ。精神科医の熊代亨氏は「東京は全国で最もコストやリスクに敏感な子育てにならざるを得ない場所だ。住宅事情も厳しく、合理的に判断して子育てを避ける人たちがいるのは無理もない」という――。

※本稿は、熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)の一部を再編集したものです。

節約
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かつての子育ては「地域共同体」で行われていた

かつての子育ては、地域共同体のなかで集団的に行われ、子育ては金銭の授受といった社会契約のロジックにあまり基づいておらず、地縁や血縁といった伝統的な社会関係のなかで、地域共同体の共有地の内側で行われていた。

社会学者のテンニースの表現を借りるなら、子育てはゲゼルシャフト(社会契約や資本主義)よりもゲマインシャフト(地域共同体)の領域で行われていたと言える。もちろんそれは良いことづくめではなく、子育ては親の自由意志だけでは成り立たず、地域共同体に従わざるを得ない不自由もあった。

他方、令和時代においては、法制度も含めた社会契約のロジックと資本主義のロジックが地縁や血縁のロジックに完全にとってかわり、徹底されるようになった。もし子育てに不自由を感じることがあるとしたら、その不自由の在り処は社会契約や資本主義の領域に根ざしていると言ってしまって概ね構わない。

こうしたゲゼルシャフト的な通念や習慣、法制度は、現在では社会の隅々にまで行きわたっているから、これらに逆らった子育ては実行するのはおろか、想像するのも容易ではない。後先を考えずに生殖し、子どもを次々に産み、路上で遊ばせ、教育に頓着しない子育てを、たとえば本書の読者はいったい想像できるだろうか。

社会に迷惑をかけない子育てが求められている

ハイレベルな秩序を実現させた社会契約のなかでは、子どもとは、唐突に他人に迷惑や不快感を与えかねないリスクを含んだ存在だから、親はできるだけ子どものことで他人に迷惑や不快感を与えないよう、注意深く振る舞わなければならない。子ども自身も、他人に迷惑や不快感を与えないよう早くから期待され、そのように行動できなければならない。

と同時に子どもはかつてないほど大切にされなければならなくなり、虐待やネグレクトは忌むべきものとなった。体罰が否定されるのはもちろん、日に日に高まっていく社会全体の敏感さに抵触しない子育てを成功させなければ、社会から親として不適格とみなされるおそれがある。そうした通念や習慣をどこまでも内面化している親たちは、子育てに瑕疵があれば罪悪感や劣等感に苛まれることになる。

地域共同体が子育てのリソースとしてあてにならなくなり、子育てに関するあらゆるモノやサービスが金銭で贖われなければならなくなったことによって、狭義の教育はもちろん、現代人にとって必要不可欠な通念や習慣すら、親自身が教えるかインストラクターにお金を払うかしなければ子どもは身に付けられなくなった。上昇志向のブルジョワ的な通念や慣習をよく内面化した現代人にとって、子どもが何も身に付けられないまま年齢を重ねていくなど容認できるものではないから、お金がなければ子育ては成立しないし、始めるべきでもない。