心が強く揺さぶられた経験を思い出した
けれども、被写体への愛と尊敬を持ち合わせない撮り手に良い作品は絶対に撮れるわけがないと思っている私が好きになれないものを撮影するのは、自分のポリシーから大きく逸脱してしまう。
この2年くらいは、そんな焦りと罪悪感、ポリシーの狭間で苦しんでいた。(この時期は「人に興味を抱く方法」などというワードをGoogle検索するほど追い詰められていた。)
しかし、その時は突然訪れた。
2018年の夏の終わり頃に“ドラァグ・クイーン”が、ふと脳裏を横切ったのだ。
6~7年前に観た、映画「プリシラ(The Adventures of Priscilla, Queen of the Desert)」に登場する彼女たちの華やかな衣装と、それに負けない美しい生き様に心が強く揺さぶられたことを鮮明に思い出したのだ。(その瞬間、脳内で見知らぬドラァグ・クイーンにウィンクされたような気がした。)
ドラァグ・クイーンに会ってみたい。
ドラァグ・クイーンを撮影してみたい。
少数民族以外に興味を抱くなんて何年ぶりだろうか。自分が興味を持てる人が現れたことに私は嬉々とした。
正直に言うと、彼女たちに会うまでは「ドラァグ・クイーンは、男性として生まれてきた人が女装をしている」程度の認識しかなかった。だから、ドラァグ・クイーンとはゲイなのかトランスジェンダーなのかなど、わからないことだらけだった。
ドラァグ・クイーンとは「自分がなりたいモノになること」
実際に、ニューヨークとパリで協力してくれた彼女たちは想像以上に美しく妖艶で、自由な人たちだった。この取材を通して、ドラァグ・クイーンにも、さまざまなジャンルとジェンダーがあることを知ったのだが、彼女たちの話を聞いているうちにカテゴリーなどはともかく、“自分がなりたいモノになることがドラァグ・クイーン”だということも、わかった。
つまり、男性や女性、ゲイやストレート、そんな狭い枠におさまる人たちでは到底なかったのだ。ドラァグ・クイーンとは、とてつもなく幅広く、定型を持たない自由な存在で、彼女たちの生き方そのものがアートであり“自由の象徴”だったのだ。
壮絶な過去を背負う人、大きな壁を乗り越えてきた人、美への飽くなき探求心を持つ人、それぞれが皆ドラマを持っていた。そこから垣間見える不器用な生き様と精一杯の人間らしさに惹かれると同時に、少数民族に感じた“真の美しさ”が、彼女たちにも溢れているのを感じた。