周りより早くできることに「意義」はあるのか
たとえば、みんながまだ字が読めないときに、わが子が字が読めるようになったとして、それにどれだけの意義があるのだろうか。小学校に行くようになれば、だれもが読めるようになるのである。
みんながまだ計算など習わないときに、計算を習ったわが子が足し算や引き算ができるようになったとして、それにどれだけの意義があるのだろうか。小学校に行くようになれば、だれもがそのくらいの計算はできるようになるのである。
みんながまだ英語など何もわからないときに、英会話塾に通うわが子が「ハロー」「サンキュー」「マイ・ネイム・イズ・だれだれ」などと言うようになったとして、それにどれだけの意義があるのだろうか。いずれそのくらいの言い回しはだれもができるようになるのである。
自由に過ごすことで心のたくましさが育つ
みんなができないことができて得意な気持ちになるということはあるだろう。でも、いずれ追いつかれてしまうのである。みんなに追いつかれ、やがてとくに素質のある子や勉強熱心な子に追い抜かれていくとき、周囲の友だちが自由に遊び回っている時期に塾にばかり通っていたことを、心の中でどう受け入れたらよいのだろうか。
さらには、幼い頃に友だちと思う存分遊び回ることなく、自分の興味のままに動く経験も乏しいことによって、人間関係力が身につかなかったり、自己コントロール力や自発性が育たなかったりするということもある。
逆に、早期教育に通わせられることもなく、自由なときを過ごしていたために、小学校入学時には学力的に平均より遅れていた子が、いろんな勉強に触れて興味をもち、好きな科目ができ、進んでいた友だちに追いついていったりしたら、さぞ勢いがつくに違いない。
伸び伸びと遊び、友だちと積極的にかかわり、やりたいことを思う存分してきた子には、溢れるような生命力がある。友だちづきあいに支えられて楽しく過ごすことができるだろうし、必要に迫られたときには頑張る力、多少の困難には耐えられる心のたくましさが育っているはずである。