私の老母は毎日テレビを見ながら「死ぬ」と言って家に閉じこもった
ただでさえ経済が疲弊している北海道では知事が全国に先駆けて非常事態宣言を出した。鈴木直道知事の英断という声が強いが、私からすれば自殺行為である。私が子供のころ(30年前)、北海道の人口は約560万人だった。それが現在では約525万人にまで減少した。一方札幌市は約170万人だったのが約195万人を超え、地価は上昇を続けている。要するに極端な道都一極集中が起こっているのだが、その肝心の札幌の歓楽街から灯が消え、同市に住む私の老母は毎日テレビを見ながら「死ぬ」と言って家に閉じこもっているそうだ。札幌経済の死は北海道の死である。鈴木知事は北海道を縮小させたいのだろうか。なぜ経済を縮小させる人間を称賛するのか意味が分からない。
こういう時、老人層に「冷静になって数字をよく見てみよ。がんや脳卒中や心筋梗塞の方が怖かろう。なんなら交通事故死の方が遥かに多かろう」と言っても何の意味もないのである。「第二次世界大戦の敗北は軍事力の敗北であった以上に、私たち文化力の敗退であった」(意訳)とは、角川源義による名文であったが、これに当てはめると今次コロナ禍に付随するあらゆる過度なパニックと流言飛語とデマは、私たち日本の文化力、教育力、科学的思考力、理論的思考力すべての敗北である。
私たち日本人は戦後、いったい何を学び、何を教えられてきたのか。すべてが無駄であったとは思いたくないが、まるですべてが無駄のように思えてくる。
飲み会をオンラインですることに噴飯した
とある、回らない寿司屋ではカウンター席の間に透明の仕切りが出来た、というニュースを朝日新聞が伝えていた。客同士の飛沫感染を防ぐため、という理由だが、板前やバイトが咳をしたら終わりで、科学的根拠はない。寿司屋に入る前に客が満員電車に乗っていてもすべてが終わりである。
だが満員電車は全く規制されていない。ただのポージングというか、自己満足に陥っている。本当に感染を徹底して防ぎたいのであれば、核シェルターかパニックルーム(非常時避難室)に籠るのが第一選択だ。しかし「唯一の被爆国」を標榜しておきながら、日本の標準的住宅の核シェルター配備率は世界的にみて飛びぬけて低く、またパニックルームの備えも基本的には無い。そういう危機の発想自体が日本の住宅構造の中にない。日本の住宅の危機意識は耐震一本槍である。だがこう言った根本的な事柄への議論は無い。なぜヒトはこんなにも愚かなのだろうか。
テレワークというのがまたぞろ推奨されている。私のような物書きは、10年前からテレワーク(電話で受注、メールで納品)をやっているから「何をいまさら」と思うが、これが濃厚接触を避けられて良いという。だが私からすれば、それで仕事ができるのなら、なぜコロナ禍の前からテレワークを実行しなかったのかと感ずる。要するに日本の職場の「通勤信仰」が強固なのである。果たしてこれまで通勤専従だった労働者が急にテレワークなる試みをして成功するかについては甚だ疑問である。
噴飯ものなのは企業内の飲み会をテレワークでやるというもの。最初聞いた際、何のことだか分からなかった。曰くチャットで参加者を全員繋いで宅飲みを相互中継するというものだ。何の意味があるのかよくわからない。そこまでするんだったら飲み会など辞めればよいのではないか、という意見が出ないところに翼賛的思想の残滓を感じる。要するに、テレワークなどと横文字を吹聴しておきながら発想自体は国家総動員体制のままなのである。滑稽だ。