私は、この「眉」に在籍していたため、ザボンも自然と文壇バーになったのです。

自分の店を始めた理由に深いものはありません。「眉」に来ていたある雑誌の編集長に、「手ごろな物件があるからやってみるといい」と言われ、同じくお客さんだった丸谷才一(2012年没)先生も「いいんじゃないか」とおっしゃった。そんなのまともに受けていいのかしらと思いながらも、商売の難しさも知りませんでしたので、気楽に開いたわけです。自己資金の500万円と、国民金融公庫から300万円を借り、計800万円の初期投資でした。

銀座に増えた中国人観光客の中には一晩で500万円以上使う人も。街の意味合いが従来と変わってきた。

借り入れた300万円も1年で返済し、2年で13坪の物件にお引っ越しをしました。自己資金の1000万円と再度2500万円を借りました。その3年後には20坪の物件に移り、現在の場所である銀座6丁目「第4ポールスタービル」に腰を落ち着けました。店は順調で、89年には赤坂に蕎麦割烹「三平」をオープン。たくさんの先生方にお世話になり、銀座にやってきてよかったと心から思えるような時期でした。

私を銀座に連れてきたのは、囲碁棋士の藤沢秀行(09年没)さんです。鹿児島から上京後、ラーメン屋やガソリンスタンドや雀荘でアルバイト生活を送り、ある商社に就職しました。会社の役員に先生は囲碁を教えに来ており、私はそのギャラを渡しに、先生のところへ通っていました。上司との関係に悩んでおりまして、「先生、会社を辞めたいわ」なんて言ったら、じゃあ銀座の女になるかと。それで、「眉」に連れていかれたわけです。

銀座にやってくる男性たちは、エリートばかりでした。私は小さい頃からエリートの男性と結婚がしたいという漠然とした夢があった。これはいまでも覚えていますが、店に来た伊丹十三(97年没)さんに、「私、エリートの男性と結婚したいのよ」と漏らしました。すると伊丹さんは、「バカじゃないのか。銀座の女には不幸の影がないといけないんだ。あんたが幸せな女だったら、いったい誰が店に来るんだよ」って。私もこの街で多くの恋をしましたが、銀座の女であることであきらめなければいけない恋はたくさんありました。

銀座の女は不幸でいなければいけない

私がいままでお付き合いしてきた男性は、すべて店のお客様です。そうなれば、もう不倫しかないんです。年配の男性ばかりですから。私の時代の花柳界には、ある種の厳しさがあって、お店を通してママに一報を入れないと、お客様とは交際できませんでした。