ヘイト本と反ヘイト本が「同じ角度」から批判を展開

けっしてカンタンな仕事ではないと思う。たとえば、『マンガ大嫌韓流』(晋遊舎、2015年)の主な登場人物のひとりで、韓国の「反日プロパガンダ」に対抗して「嫌韓プロパガンダ」を打ちだすことにしたというサークルのリーダーは、見るからに正しい人ではなく、狂気を孕んだカルト教団の教祖のように描かれている。そのうえ、あくまでも日韓友好を目指したいという結論に至る主人公の考えを肯定するなど、わりと複雑なキャラクターなのだ。悩み多き若い世代がリアリティを感じられるように工夫していることがうかがえる。

石橋毅史「本屋な日々75 憎悪を探して」(発行:共同DM「今月でた本・来月でる本」、編集:トランスビュー)

ヘイト本と反ヘイト本が、同じ角度から対象を批判しているケースもある。

さらば、ヘイト本』(ころから、2015年)の大泉実成の寄稿のなかに、「影(シャドウ)」というユング心理学の用語を用いてヘイトスピーチにはしる人を分析する場面がある。排外主義的な発想に陥る人は、うまく言葉にできないが気に入らない相手に対してとんでもない理屈で攻撃してしまう。それは自分の心に潜むものの「投影」なのだが、本人はなかなか気づくことができないのだという。

同じ用語で韓国人の反日感情を解説しているのが、『韓国人による恥韓論』(シンシアリー、扶桑社、2014年)である。著者は、韓国人こそが「影」を抱えていて、日本を非難することは自身の心の投影だというのだ。

煽動するというよりはクールなトーンで書かれている『恥韓論』は、はたしてヘイト本なのか。自信をもって判断するには、歴史をはじめ多方面の豊富な知識が必要になりそうだ。

友人は「長く読み継がれることはない」と語る

もっとも、知識の乏しいうちは引き下がるしかないのかといえば、そうでもない。

撮影=石橋毅史
平積みされていた『六本木 キム教授』

その本が対象への「憎悪」や「蔑み」で書かれているか、「敬意」や「相互理解への希望」を前提にして書かれているかを判断することは、さほど難しくない。ヘイト本の場合、「憎悪」や「蔑み」は本のタイトルや目次に表れている。なぜなら、そういう言葉を求める人びとに向けて刊行された商品であるからだ。

それでも……真に理解しようとすれば、やはり自分で読んでみるしかない。

では、『六本木 キム教授』は?

通読した知人は、たしかに著者は日本や日本人を非難しているが、その多くは実体験をもとにした怒りや不満であり、あくまで個人的意見の表明というニュアンスも残されていると思う、と話した。そして、ただし話が浅い、と付け加えた。「日本のことをよく知らないけど嫌い、という韓国人は読んですっきりするかもしれないが、仮りに一時的に売れることがあっても、長く読み継がれることはないだろう」