いまを生きる“わたしたち”への道しるべ

著者の原佑介は、あの時代にもあったはずの日本人と朝鮮人の心温まる交流も書かず、かといって「日本は悪、朝鮮は善」という安直な構図の物語にもせず、植民地朝鮮の風景、植民者と被植民者の言動や心象を執拗に描きつづけた作家がなにを伝えようとしていたのかを丁寧に探ってゆく。

著者の狙いはなにか。

いまを生きる“わたしたち”が、70年以上も昔の出来事の責任をとることは実質的に不可能である。自分の生きた時代ではないのだからどうしようもない、これが偽らざる本音だ。

だが、それを言い訳にして歴史の過ちからなんとなく目を逸らし、なんとなく忘れようとする“わたしたち”の態度は、「あの時代の日本は良いこともした」とか「そんな過去はなかった」という言説が広がる温床となる。

著者は、小林勝という忘れられた作家に光をあてることで、いまの“わたしたち”の態度が再び過ちを犯す危険を孕んでいること、過去は清算されるものでも簡単に正解にたどりつけるものでもなく、よく見つめ、考えつづけるものであることを知ってほしいのだと思う。

嫌韓本と嫌日本を前にして無様に揺れつづける僕に、結論ではなく、指針を与えてくれる本だった。

書店店主「自分なりの判断基準をもたなくては」

やはり昨年の秋のこと。東京・千駄木の往来堂書店でトークイベントがあり、店主の笈入建志おいりけんじと並んで話した。

最近、書店に行くのがつらい。笈入は、ある常連客からそう言われたという。本は読みたいし、書店で買いたいが、棚に並ぶヘイト本を見ると買う気が失せる……いま、あちこちから聞こえるつぶやきだ。本好きをリピーターにする品揃えで知られる往来堂でも、取次から入る月刊誌の『WiLL』や『Hanada』など定番の雑誌と売れ筋の関連書くらいは置くし、それなりに売れていくという。

「本屋は入荷する本のごく一部しか読めず、自店に置くすべての本の内容を保証できるわけじゃない。いろいろな客に対応できるように、間口も広げておきたい。でも、だから本屋には責任がないというのは違うんだと思う。入ってくるから置く、売れるから置くというだけじゃなく、自分なりのガイドライン、判断基準をもたなくてはいけない」

最近はそんなことを考えている、と彼は話した。