さらに、こと組織内という状況に限れば、もう1つ非常に大事な権力の源泉がある。それが
3、人事権
会社でいえば、「お前、左遷されたくないんだろ、だったら俺の言うこと聞けよ」と脅しつけるような形に近い。『韓非子』も当然、この3つの原理を巧みに操り、権力維持を考えた。前回ご紹介した、「信賞必罰」は、法の力を借りて、
「上に従順で成果をあげれば、地位や褒美をとらす」
「逆であれば、刑罰を与える」
という、いわば金と人事権、懲罰権行使の形になるわけだ。
しかも『韓非子』は、ここに見事な賞罰の運用法を付け加えた。「刑名参同」という。
・部下の悪事を防ごうとするならば、トップは部下に対して「刑」と「名」、すなわち申告と実績の一致を求めなければならない。まず部下がこれだけのことをしますと申告する。そこでトップは、その申告にもとづいて仕事を与え、その仕事にふさわしい実績を求める。実績が仕事にふさわしく、それが申告と一致すれば、賞を与える。逆に、実績が仕事にふさわしくなく、申告と一致しなければ、罰を加える。『韓非子』二柄篇
現代でいえば、「成果主義」にそっくりな手法といえる。ただし『韓非子』の方は、実績が目標を超えた場合でも処罰の対象になってしまう。なぜなら、これはあくまで権力維持のための手段、いかに忠実に決まりを守ったかが評価対象だからだ。
権力を使うさい、こうした「法」や「刑名参同」をわざわざ咬ませ間接的な形にするのには、実は大きな意味がある。
たとえば現代でも、会社のワンマン実力者が人事や賞罰を一手に握り、恣意的に行使することがある。この場合、絶大な権力を握れるかわりに、どうしても組織内で怨みをかったり、面従腹背の部下を生むといった難点が出てくる。罰則や左遷といったネガティブな権力行使には、感情のもつれがつきものであり、その負のエネルギーがどうしても権力者本人に向けられてしまうからだ。
ところが、ここに「法」や「刑名参同」というクッションを一枚挟んでみよう。すると、「ルールだから仕方ない」「自分で申告した目標だから自業自得」と、負のエネルギーから身をかわすことが可能になるのだ。『韓非子』はいやらしい。だからこそ使える古典でもあるのだ。