電信柱を殴り、止まっていた自転車を蹴飛ばす

食事中も伊良部は荒れ気味だったという。

「ぼくは次の日が先発だったのかな、だからあまり飲んでいないです。ラブ(伊良部)さんは結構飲んでいて、ヒートアップしてました。でもヒートアップしても、ぼくには害がないんで、気にしなかったですね」

帰り道、伊良部は広岡たちへの不満、あるいは打たれたことを思い出したのか、おもむろに電信柱を殴り、止まっていた自転車を蹴飛ばした。

「チャリンコを蹴飛ばした後、うずくまったんです。“大丈夫ですか?”って聞いたら“いかん、これは行ったぞ”“まじすか?”骨が折れていた」

ふっ、と前田は当時を思い出したか、含み笑いをした。

「夜は酒飲んでいるから多少の痛みだったみたいなんですけれど、朝起きたら親指が紫色になっていた。病院に行ったら骨折だと」

その口調からは、前田が1つ年上の先輩を、どこか突き放しながらも温かく見ている様が伝わってきた。伊良部にとって前田は可愛い弟分だったのだ。

プロのピッチングコーチからは何も教わらない

前田は入団2年目から8勝を挙げている。スライダーとナックルボールという変化球を自分で試行錯誤しながら身につけたことが大きかったという。

「プロのコーチって、言い方悪いですけれど、あまり信用していなかったので。実際、ぼくの場合、プロのピッチングコーチから教わったことってないんです。(自分の躯については)俺の方が知っているはずだと。思っていたんです」

当時のピッチングコーチは誰だったんですか、と聞くとそして誰だったかな、いたのかなととぼけた。

前田は88年のドラフト1位で福岡第一高校からオリオンズに入っている。高卒のドラフト1位――ドライチは何かと注目される存在である。こいつは俺が育てたのだと言いたいコーチが近付いてきたはずだ。しかし、前田は記憶がないと笑った。

前田の悪戯っぽい顔が突然浮かんで来たのは、辻内崇伸に取材をしたときだった。

大阪桐蔭高校の辻内は2005年夏の甲子園で150キロ代のストレート、カーブ、フォークを駆使し、2回戦の茨城県代表の藤代を相手に19奪三振を挙げた。これは当時の1試合最多タイ大会記録である。180センチを超えるがっしりとした躯、そして貴重な左腕投手として注目を集め、この年のドラフト1位で読売ジャイアンツに入った。

しかし――。

2013年に引退するまで一軍登板はゼロだった。

辻内が躓いたのは、ジャイアンツに入って2年目、2007年2月のキャンプのときだった。前シーズンまで、2年連続Bクラスにジャイアンツは沈んでいた。監督だった原辰徳は、チームを鼓舞しなければならないと考えたのだろう、キャンプから精力的に動きまわっていた。