「10球ぐらい、肘が痛いまま投げてしまった」
原は投球練習の行われているブルペンに顔を出した。ジャイアンツの指揮官には、観客を喜ばせることも必要だという考えが原の行動の根底にある。原は観客に素晴らしい球だと認めれば拍手をしてくれと頼んだ。そして、拍手の数が十分だと原が判断すれば投球練習終了になった。
原の言葉を聞いて、辻内は困ったことになったと思っていた。前年、辻内は2軍戦で13試合に登板している。2軍の選手を対象としたフレッシュオールスターに選ばれたが辞退している。肩に痛みが出ていたのだ。
野球を長く続けていると、どこかしらに軽い怪我は抱えているものだ。アマチュア時代は、若かったこともあるだろう、少し休むと痛みは収まった。ところが、プロになると休むことが出来なかった。
辻内はこう言う。
「痛くて投げないと怪我人にされてしまう。お金をもらっている以上、野球をしなきゃいけない」
その責任感が辻内を追い詰めることになった。ドラフト1位として期待されながら、1年目を2軍で過ごした後、1軍キャンプに帯同していた。ここで監督の原に力を見せつけなければと思っていた。しかし、肘に痛みがあった。
「肩を庇って投げていたら、肘に来たんです。10球ぐらい、肘が痛いまま投げていました」
辻内は「ああー」と大きな声を出した。
「叫びたいぐらいの痛み。それでも投げなあかんと思って投げたら、ボールが変なところに言ったんです」
投げ終わった後、声が出せないほど肘が痛んだ。この一球で辻内の野球人生は終わることになった。左肘の靱帯が切れたのだ。
酒を飲む仲間とつるまず“孤”を貫けるか
手術を受けてリハビリをしたが、彼の伸びやかな直球は戻ることはなかった。
将来ある若い選手なのだ、痛みをきちんと伝えることはできなかったのか。
そう問うと「言えなかったです」と首を振った。
「プロ向きの性格」という、定義の曖昧な言葉が使われることがある。曖昧ではあるが、なんとなく理解できる言葉でもある。辻内は、150キロを超える速球を投げることのできる類い希な身体的能力を与えられながら、プロ向きの性格ではなかったと言えるかもしれない。
西武ライオンズの元投手、松沼博久はこんなことを言っていた。
「ピッチャーって、一匹狼が多いんですよ。ぼくはずっと単独行動だった。ピッチャーともつるまない。オト松ともあんまり出かけていない。平野謙が中日から西武に来てしばらくした頃、食事に誘われたの。それで行ったら辻(発彦)とかもいたの。あいつら野手だから毎日仕事している。それなのに結構どんちゃん騒ぎしているんです。こんなに夜更かししていいのかなと思った。ぼくらはローテーションで動くからね。野手は毎日試合をやって、遊ぶ。試合で活躍しないと遊ぶ資格はないって」
松沼は高校生まで野手を兼任、大学から投手に専念している。高校までは甲子園の出場経験さえない。ただ、彼は投手向きだった。そして大学から社会人を経て、西武ライオンズの黄金時代を支える投手となった。松沼は酒を飲んで盛り上がる野手たちを、醒めた目で見ていたことだろう。人から何と思われようが“孤”を貫くことも投手のSIDであるのだ。