「中村哲さん死亡 憲法の理念を体現した」への違和感
各社説に目を通していて少々、気になったのが東京新聞の社説(12月6日付)だ。
東京社説は「平和憲法のもとでの日本の国際貢献のありようを体現した人だった。アフガニスタンで長年、人道支援に取り組んだ医師中村哲さんが現地で襲撃され死亡した。志半ばの死を深く悼む」と書き出す。
「平和憲法のもとでの」という書き出しは、追悼の社説にしてはどこか引っ掛かる。
見出しも「中村哲さん死亡 憲法の理念を体現した」で、違和感を覚える。
さらに東京社説はこうも指摘する。
「紛争地アフガニスタンでの三十年近くに及ぶ活動の中で、戦争放棄の憲法九条の重みを感じていた人だった。軍事に頼らない日本の戦後復興は現地では好意を持って受け止められていたという」
「政府が人道復興支援を名目に、自衛隊を派遣するためのイラク特措法を成立させた後は、活動用車両から日の丸を取り外した。米国を支援したことで、テロの標的になるという判断だった。現地での活動は続けた。『活動できるのは、日本の軍人が戦闘に参加しないから。九条はまだ辛うじて力を放ち、自分を守ってくれている』。二〇一三年、本紙の取材にそう語っている」
中村さんの死が、憲法論議のために消費されていいのか
「戦争放棄の憲法九条の重みを感じていた人」という東京新聞の評価や、中村さんが「九条はまだ辛うじて力を放ち、自分を守ってくれている」と東京新聞の記者に話したことはひとつの事実だろう。
だが、中村さんを追悼する社説に取り上げるには無理があると思う。なぜなら憲法九条の重視が中村さんという人間の本質とは思えないからだ。
中村さんは人間が好きで、アフガンを愛した人であった。そこを書かずに東京社説の好きな「憲法九条の重み」を追悼社説の柱に持ち出すのはおかしい。中村さんが「憲法の理念を体現した」人だというならば、憲法を論じるときに書くべきではないか。中村さんの死が、憲法論議のために消費されてはいけないはずだ。