「人道支援は善意の押し付けだけでは失敗する」
中村さんは1946年に福岡市で生まれた。九州大医学部を卒業した後、1984年に派遣要請を受け、パキスタン北西部のペシャワールでハンセン病患者の診療を始めた。
その後、アフガニスタンにも医療活動を広げ、2000年以降は大干魃に見舞われたアフガンの地で、井戸や農業用水路の整備に取り組んできた。干魃が絶えない大地に用水路を掘り、1万6500ヘクタールもの乾燥した砂漠を潤し、緑の農地に変えた。アフガンの人々は中村さんに深い畏敬の念を持っていた。2019年10月にはアフガンの大統領から名誉市民権を授与されている。
中村さんは聞いた人の心に残る言葉を数多く残した。たとえばアフガンに診療所を開設する前年の1990年、日本人スタッフにこう語った。
「地元の人が何を求めているのか。そのために何ができるのか。生活習慣や文化を含めて理解しないといけない。自分の物差しを一時捨て、偏見なく接することだ。善意の押し付けだけでは失敗する」
これは人道支援の基本的な考え方になるものだろう。
「100の診療所よりも1本の用水路が必要だ」
2001年のアメリカの同時多発テロで、アフガン情勢は緊迫する。中村さんは一時日本に帰国していたが、すぐにまたアフガンに戻り、2003年には農業用水路の工事を始めた。
独学で土木を学び、掘削の大型重機も自ら操縦した。現地の人だけでも用水路を維持管理できるように現地の工事法を採用した。アフガンの文化と習慣を理解しようとしていたからこそ、できた用水路建設だった。
中村さんは日本で公演するたびにこう話していた。
「復興は軍事ではなく、農業から」
「100の診療所よりも1本の用水路が必要だ」
「飢えは薬では治せない」
「薬があっても水と食糧がなければ命を救えない」
「私は医者だが、農業用水路も作る」