乃木の殉死には当時否定的な見解もあった
その後、ドイツ留学を経て軍歴を積み重ね、日清戦争では旅団長、そして日露戦争では旅順要塞攻囲戦の司令官となる。だが、旅順要塞はコンクリートで固められ、江戸期には考えられないような火力で防備されていた。203高地争奪などロシア軍との死闘は制したが、未曾有の被害が出る。日露戦争後、靖国に祀られた中でもっとも多かったのは乃木の配下の将兵であったという。乃木の息子の勝典、保典も戦死し、乃木家の血筋も絶えてしまう。そして、よく知られているように、乃木は自らの最期として自死を選択した。1912年、明治天皇の大葬の夜、乃木は妻・静子にとどめを刺してから十字に切腹して果てたのだ。
しかし乃木の殉死は、当時、必ずしも美談として語られていただけではなかった。一部では、乃木の奇矯さの果ての出来事と見なされていたようだ。殉死の3日後、大隈重信が批判的な談話を出している。乃木は旅順攻撃で多くの兵士を殺し、息子も失った。そのため乃木には家庭の楽しみがなく、世の中に期待することも満足することもなく、寂しく自死を選んだのだろうというのだ。
さらに、乃木の自死は大学教授の辞職も引き起こす。大阪朝日新聞紙に、「乃木の死はいかにも芝居がかっており、好感が持てない」という京都帝国大学教授・谷本富(とめり)の談話が掲載されたのだ。谷本家には投石が行われ、結局、大学を辞職するに至った。谷本とほかの教員の学内での対立といった背景もあったようだが、乃木の死をめぐり、否定的な見解があったことがわかる。
東京市長の呼びかけで邸宅に神社を建設
その後、聖将としての乃木のイメージを決定づけたのは教育だった。当時問題になったのは、乃木の自死を子供たちにどのように教えるかであった。法律では殉死はすでに禁止されており、乃木の死は容易に肯定できない。だが、古武士的性格を持ちつつドイツ留学もしていた乃木は、近代日本にとって理想的な人間像として教育界において読みかえられてゆく。そして殉死は、乃木の清廉と勇猛のあらわれとして語られるようになったのである。
自死から2年後、乃木邸前の幽霊坂は乃木坂と呼ばれるようになっていた。そして、自死現場となった邸宅が一般に公開される。公開初日は朝から青山1丁目の停留所が混雑し、乃木邸の入り口では絵はがきや「乃木ずし」まで販売された。さらに、東京市長の呼びかけで邸内に神社が建設され、1923年に鎮座祭が行われている。