戦後の混乱期には境内が「荒廃の極みに達し」た

そしてしばらく後、ゆかりのある江の島にも、児玉を祀る神社が造られた。この社が、現在競売にかけられているというわけだ。日露戦争当時、静養も兼ねて、児玉は毎週日曜日に江の島にこもっていたことから、この地に建てられた。社殿設計は築地本願寺などで知られる第一人者・伊東忠太である。児玉の13回忌(1918年)には芝の青松寺で法要が行われ、山縣有朋、寺内正毅、木戸幸一などが列席した。法要後、列席者は皆で新橋から列車に乗り、江の島の児玉神社に参拝している。

1935年の朝日新聞に、児玉神社で宮守を務める男性Y氏のインタビューが掲載されている。もともとY氏は朝日新聞創刊時の本社社員であったが、児玉との面識を得たことで、台湾総督の桂太郎、乃木希典の秘書官を務め、最終的には児玉本人にも仕えた。インタビュー当時、Y氏は71歳。本人によれば「もう社会の仕事をしても人に迷惑をかけるだけ」だという。だからこそ、神主ではないが宮守となり、児玉神社とその対岸に建てられた乃木将軍像に奉仕して余生を過ごすことに決めた、と語っている。

児玉神社は、傑出した軍人であった児玉をしのぶため、要人たちが奔走して建立・運営されていた。後藤新平らの働きかけで13回忌の時期に政府から公認神社とされている。しかし、新たに創建されたため、氏子という経済基盤を持たず、その意味ではプライベートな性格の強い神社だったと言える。同社のウェブサイトでは、第2次大戦後の「混乱期には境内が荒廃の極みに達し」たと記されている。

乃木神社も同様の危機を味わった

明治期以降に創建され、軍人を祀った神社は同じような危機を味わっている。先に名前の出た乃木希典(1849~1912)を祀った神社も同様だが、現状には大きな違いがある。乃木のキャリアと神社の設立経緯から見てみよう。

写真=筆者提供
乃木神社

乃木も児玉と同じく日露戦争の英雄であり、「聖将」として語られることすらある。しかし、こうしたイメージは乃木の死後、時間がたってから作られたものだ。児玉も乃木も、キャリア初期、西南戦争(1877年)に参戦している。だが、児玉が熊本城籠城戦で活躍したのに対し、乃木は致命的なミスを犯す。連隊を率いていたが西郷軍に急襲され、旗役が戦死したことで連隊旗を奪われてしまったのだ。後日、連隊旗は再授与されたが、乃木にとっては痛恨の記憶となった。