「良心はいいものだ」という当たり前を疑ってみる
この時点で、レイナを「サイコパス」と断罪したクラスメイトの発言は、ただの言葉遊びにすぎないことがわかる。世間に流通するさまざまなイメージから、あいまいに「サイコパス」を語っているにすぎない(そもそも専門家にしか判断できないのだから)。レイナはそんな彼らの態度を真摯に受けとめる必要はない。
だが、今回は冒頭でも提示したように、
共感はいいものか? それは必要なのか?
ここで「良心」という観点を導入してみよう。
実は、「サイコパス」について考える上での大きな落とし穴は、「良心」の存在が自明とされている点にある。こうした無意識の前提こそ、疑うのが最も難しい。
「サイコパス」のチェックリストには、「良心」という言葉が当然のように使われているし、それが欠如するとサイコパス傾向が高まるのだ、とされている。だが、これはほんとうだろうか。「良心」とは、いいものなのだろうか?
「トロッコ問題」から良心を考える
具体的に考えていったほうがわかりやすいと思うので、古典的な思考実験「トロッコ問題」に取り組んでみよう(もとはイギリスの哲学者、フィリッパ・ルース・フットが考案した倫理学の思考実験である)。
2つの選択
【スイッチの事例】ブレーキのきかなくなったトロッコ電車が向かう先に、5人の作業員が働いている。このままだと5人全員が轢かれてしまう。今、あなたの目の前には線路のスイッチがあり、それを切り替えれば電車の進路を変えて5人を救える。しかし、もう一方の進路にも別の作業員が1人いる。進路を変えたとしてもやはり1人を轢くことになる。さて、あなたはどちらを選ぶか。
【陸橋の事例】ブレーキのきかなくなったトロッコ電車が向かう先に、5人の作業員が働いている。その線路をまたぐ陸橋の上には、あなたともう1人、太った男性がいる。彼を突き落とせば電車は止められそうだ。あなたは5人の作業員を救うために、太った男を突き落とすか、どうか。