ドイツ軍装甲部隊の「白鳥の歌」
当初は慎重な作戦指導を堅持していたスターリンであったが、4月に入ると、ベルリン攻略を急ぐ必要が出てきた。西側連合軍がライン川を渡り、急速に東進をはじめていたからだ。敵首都占領の栄誉を譲ってはならないと、スターリンは、ベルリンへの進撃を速めるように命じた。
1945年4月16日、ジューコフ指揮の第一白ロシア正面軍は、ベルリン東方のゼーロフ高地の攻撃にかかった。ここを突破すれば、ベルリンへの道には何の障害もなくなる。ところが、圧倒的な数で攻めたはずのソ連軍は、ドイツ軍装甲部隊の巧妙な反撃を受け、大損害を被った。しばしば、ドイツ軍装甲部隊の「白鳥の歌」と称される戦術的な勝利であった。
だが、今日では、ゼーロフの戦いは、いわば、ドイツ軍の勝利というよりも、ジューコフの敗北だったことがわかっている。ジューコフが狭隘な正面に兵力を過剰集中したため、ソ連軍は、作戦・戦術的に有効な動きを取ることができず、ドイツ軍の防御砲火の好餌となったのである
「闘争を継続せよ」と書いてヒトラーは自殺
その晩に、ゼーロフ高地奪取の失敗を報告したジューコフに対し、スターリンは、イヴァン・S・コーニェフ元帥率いる第一ウクライナ正面軍の進撃は順調であるから、そちらにベルリン包囲の命令を出すと告げた。典型的な分割統治である。スターリンは、将軍たちを分断し、競争させることこそが、おのれの利益にかなうことを心得ていたのだ。
ジューコフとしても、ライバルが大功を上げるのを拱手傍観しているわけにはいかない。翌17日、第一白ロシア正面軍は、ゼーロフ高地を迂回、他の正面で突破に成功する。戦闘の焦点は、いよいよベルリンに移った。
4月20日、ソ連軍先鋒部隊は、ベルリンに最初の砲撃を浴びせた。第一白ロシア正面軍が北東、第一ウクライナ正面軍が南東から、ベルリン包囲にかかる。しかし、ヒトラーは、首都を離れようとしなかった。総統がベルリンにある以上、ドイツ国民は抗戦しつづけるはずだし、また、外部からの救援軍が包囲を解くものと信じたのだ。だが、そうした部隊は、実際には、すでに消耗しきっており、ベルリン解囲など不可能であった。
4月26日、ジューコフの第一白ロシア正面軍は、ベルリン市内に突入した。市街戦が開始され、とりわけ国会議事堂(ライヒスターク)周辺では激戦となった。ソ連軍はしだいに市の中心部を制圧、ベルリンのドイツ軍守備隊は5月2日に降伏する。それに先だつ4月30日、ヒトラーは、総統地下壕で自殺していた。その遺書には、なお闘争を継続せよとの訴えが記されていたのである。