育てたいのは学力ではなく「自主性」
開成中学校・高等学校校長で東大名誉教授でもある柳沢幸雄氏(67年卒)は、次のように語る。
「息子を東大に入れたいと願う親御さんから、『(大学受験に対し)これほど面倒見の悪い学校はないのでは』と指摘されることもあります。しかし、開成は予備校のように受験指導したりはしません。わが校は『開物成務(かいぶつせいむ)』という理念を掲げ、目指すは、人間性の開拓・啓発です。勉強するもしないも、生徒の自由。自主性の中に、本来の知性が育まれると思うのです」
「だから、うちには『君は東大に行きなさい』と言う教師はいません。しかし、そうやって生徒の自主性に任せながらも、大抵の生徒は、高3の5月、運動会が終わってから受験勉強を始めます。そして、翌年には東大などの大学に入学する。これを後輩たちは見ていて、『棒倒しで大暴れしたあの人もできたなら、自分もやれるだろう』と後に続くのです。もちろん教師も、相談に来れば丁寧に指導します。年に二度、生徒にアンケートを取るのですが、学校に対する満足度は高く、中退者がほとんど出ないのも開成学園の特徴です」
世界に開かれた建学の精神
開成高校は1871年、明治政府の兵部省で造兵正を務めた佐野鼎が中心となり、「共立学校」として神田淡路町で設立されている。駿河国(現・静岡県富士市)生まれの佐野は、若くして洋式兵学に秀で、1860年(安政7年)に江戸幕府の遣米使節団として31歳で渡米。翌年には遣欧使節団にも随行し、英、仏、オランダ、ロシア、ポルトガルを歴訪した。
佐野について、自治医科大学学長で東京大学名誉教授の永井良三氏(68年卒)は、「佐野先生は江戸末期に米・欧を訪れ、英語教育をはじめ教育の重要性を実感された。つまり、わが国で世界を知る最初の人であり、開成建学の精神にも進取の精神が強調されたのでしょう」と語る。
ちなみに国家プロジェクトとして岩倉使節団が米欧を視察するのは、1871年末から73年秋にかけて。佐野は、これより実に10年も早く米欧に赴いたのである。まさに、“グローバル人材”の先駆けだった。
ところが、77年に佐野は急逝。学校は廃校の状態に陥るが、翌78年に初代校長として高橋是清が就任する。高橋は、学校を「大学予備門(後の旧制一高=現在の東大)に入る者の学力充実を目的とする」と明確に打ち出し、多くの志願者を呼び込んで経営再建を果たした。明治の一時期、再び経営難から東京府立となり「開成」と校名を変更するが、6年後の1901年、私立へと復帰している。
華麗なる卒業生
明治期の卒業生は偉人揃いである。尾崎行雄(文部大臣)、岡田啓介(総理大臣)、高田早苗(早大総長)、長岡半太郎(阪大総長・物理学者)、黒田清輝(洋画家)、秋山真之(海軍中将)、正岡子規(俳人・歌人)、南方熊楠(民俗学者)、島崎藤村(詩人・小説家)、柳田國男(民俗学者)、斎藤茂吉(歌人)、浅野総一郎(浅野セメントなど創業)、山口多聞(海軍中将)——。各方面に人材を輩出している。
その後、関東大震災により校舎が焼失し、1924年に現在の西日暮里に移転した。