母親が書かされた「無理な内容」の誓約書
夫は離婚の意思はなく、「やり直したい」と語ったというが、彼女は「やっていけない」と口にする。「皆に責められていると感じて、その場から逃げ出したかった」のだという。彼女にも離婚の意思はなかったが、何も言えないままに夫の実家側の意向に添うかたちで離婚が決まってしまう。その場で、彼女はこんな誓約書を書いている。
・借金はしっかり返していきます。
・自分のことは我慢してでも子どもに不自由な思いはさせません。
・家族には甘えません。
・しっかり働きます。
・逃げません。
・うそはつきません。
・夜の仕事はしません。
・連絡はいつも取れるようにします。
自分の意思で書いたものではなく、子どもを育てることになり、書いてと言われたものだという。「そこにいた皆から言われた気がしました」と彼女は語っている。そのとき、子どもは0歳と2歳。養育費についての話し合いはなく、彼女は父親にも母親にも頼れなかった。
どう見ても無理な内容の誓約書だ。けれども彼女は、逆らうことはできなかったという。
ここに列挙されているものは、「母親たるもの、こうあるべき」という内容だ。「こうあるべき」と彼女を縛る、「呪いの言葉」だ。その言葉に「NO」と言えないまま、彼女は子どもふたりを抱えて、孤立無援で生きていくことを余儀なくされた。
「育てられない」とは言ってはいけないと思った
この家族会議の場で彼女は、「私には育てられない」と言ったという。けれども、「母親から引き離すことはできない」とその場にいた皆に言われた気がして、「育てられないということは、母親として言ってはいけないことだと思い直しました」と、公判で弁護士の問いに答えている。
あるべき母親像をまわりから押し付けられ、自分でもそれを引き受けなければいけないと思い、実際には引き受けられないと思いつつ、異議申し立てをできずにその場の流れを受け入れてしまった彼女。けれども、現実的な条件を欠いた中で、あるべき「母親」役割を担い続けることは、無理だった。
離婚後、名古屋に移り住んでいたときに、一度だけ彼女は行政に助けを求めている。区役所に電話をかけ、「子どもの面倒が見られないから預かってほしい」と求めたが、担当者が帰った後の時間であり、児童相談所にかけなおすようにと言われた。彼女は児童相談所に電話をかけ、「一度来てください」と言われたが、具体的な日時の指定や段取りの話はなく、その後は、みずから連絡を取ることはなかった。最初の相談先である区役所では、翌日に相談員が折り返しの電話をかけたが、彼女からの応答はなかった。
その後、彼女は大阪に移り住む。風俗店の勤務には、子どもたちを家に置いて出かけた。一審の裁判で「区役所に連絡を取る等、誰かに助けてもらおうとは思いませんでしたか」と弁護士に尋ねられた彼女は、こう語っている。