嫌なことがあるとひどく落ち込み、なかなか立ち直れない人がいる。MP人間科学研究所代表の榎本博明氏は「こういった人は、困難な状況にあっても、心が折れずに適応できるレジリエンス(回復力)が低いことが多い。早く立ち直れないのは性格ではなく、記憶の管理法に問題がある」と指摘する――。

※本稿は、榎本博明『なぜイヤな記憶は消えないのか』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/shironosov)

自分が嫌だと嘆くのに気晴らしに逃げている

自分の毎日の生活がパッとしないとか、外で人と一緒にいれば気が紛れるが家に帰ってひとりになると気分が落ち込み憂鬱になるなどと言いながら、何も生活を変えようとしない。そんな人があまりに多い。

自分が嫌だと嘆きつつ、そんな自分を変えようという動きがない。これではいつまでたっても憂鬱な毎日から抜け出すことはできない。

そのような人は、自分のことを嘆きはするが、自分と向き合うということがない。テレビを見たり、音楽を聴いたり、ネットで検索したり、ゲームをしたり、SNSでやりとりしたりと、気を紛らすことをするばかりで、自分と向き合わない。まるで自分と向き合うことを怖れるかのように、気晴らしに没頭し続ける。

「人間は意味を求める存在である」とし、意味を感じられないことからくる空虚感が多くの現代人を苦しめているとした実存分析の提唱者である精神科医フランクルは、気晴らしによって虚しさに直面することから逃げている人があまりに多いとし、気晴らしの弊害を指摘している。

「無理しなくていい」という心のケアの決まり文句

家に帰ると、すぐにテレビをつける。パソコンを立ち上げる。虚しさに、つまり納得のいかない自分自身に直面するのを避けるべく、ひたすら気晴らしに走る。スマートフォンの登場が、そうした傾向に拍車をかけている。

電車の中でも、家にいても、スマートフォンを手放せない。絶えずいじりながら、自分と向き合う瞬間をことごとく避けている。それによって、自分の中の虚しい思いに直面せずにすむ。暗黒の裂け目に吸い込まれそうな恐怖を味わわないですむ。

気晴らし的な娯楽の場や道具がつぎつぎに開発されることで、自分と直面する機会が奪われる。そのせいで自分を変えるチャンスも逃すことになる。

そうした気晴らし的な娯楽に加えて、「そのままの自分でいい」「無理しなくていい」という心のケアの決まり文句が、後ろ向きに開き直る人物を大量生産している。

ありのままの自分を受け入れる、つまり自己受容が、前向きに生きる上で重要な意味をもつのは言うまでもない。だが、それは、まだ未熟で至らないところもたくさんあり、理想にはほど遠いが、日々一生懸命に頑張って健気に生きている自分を認めてあげよう、まだまだ未熟だからといって責めるのはやめよう、そのままに受け入れよう、という意味である。