私はどんな宗教も信じていない。祖父母は浄土真宗の門徒で、母親は奥多摩・御嶽神社の宮司の娘。そんな家庭環境の中、私は私立のミッション系小学校に通った。毎朝ナンマイダと唱えて線香を上げ、神棚に灯明を上げて拍手を打ち、学校では牧師の説教を聞いて賛美歌を唄うという少年期を過ごした。こうした体験が、私の無節操な宗教観の原点である。以来、中学時代には漢籍に興味を覚え、四書五経マニアになるなど、宗旨不明な宗教遍歴を重ねた。いっそイスラム教徒になって世界五大宗教グランドスラム達成を考えた時期もあったが、それはそれで残された子供には迷惑だろう。結局、母親の墓地を買ったお不動さんの檀家になって真言宗の門徒に落ち着いた。

自分が介護を受ける立場になったら、絶対に子供には迷惑をかけたくない――。

朝の散歩で行けるところに親の墓があるのだから、最後に親孝行したと思う。葬式も墓も、どうしてこんなに金がかかるものなのかとうんざりしたものだが、墓は便利なところにあったほうがいい。どこか遠方の山間に安い墓を買ったところで、面倒くさくて行かなくなる。すると墓は荒れてしまうだろう。

せっかく高い金を払って墓を買ったのだから、私もそこに入れてもらうつもりだ。墓の世話など放っておきで構わない。出版社に「何とか忌」とか名付けてもらって、年一回、集まってもらえばそれで十分か。

最近は散骨を望む人もいるが、死んだらどういう因果があるのか、だれもわかっていない。極楽があるか、転生があるか。もし散骨をして転生できなくなったら、どうすればいいの? と思ってしまう。そんなことを考えると、みんなと同じことをやったほうがいい。この世でもあの世でも、多数決ってものがあると思うから、日本人は日本の習慣に従って普通にやればいい。

葬式はささやかな密葬か何かで、後々「亡くなっていたことが判明した」なんてことにしたいと思う。しかし、それも考えてみれば、周囲の人たちに対しては失礼かもしれない。「身内だけで済ませました」という葬式もあるが、それは勝手ではないかと思うときもある。だから葬式に関してはまだ結論は出ていない。

死んじまっているのだから、自分がどうやりたいかなんてどうでもいい。ただ、自分の分に相応しいものが一番いいと思う。背伸びもせず、縮こまりもせず。周りの人たちが心の整理をつけられるぐらいの按配で。自分が意思表示をしなくても、自然にそうなる葬式というのが正しいのだろう。

そして後の人が困らないようにきちんとして死にたい。私は生来、キレイ好きだ。車はいつもピカピカ、書斎も舐められるぐらいキレイだ。だからよほどコロッと逝かない限りはきちんとすると思う。

ただ一つ、今の段階で決めていることがある。子供には財産を残さないことだ。自分のお金は自分で使い切る。「子孫のために美田は買わず」という言葉がある。西郷隆盛が大久保利通に宛てた書簡にある言葉で、正しくは「大丈夫たるもの、玉砕するも甎全を愧ず。児孫のために美田を買わず」。「甎」は敷き瓦のことで、「玉砕するも甎全を愧ず」とは、玉と砕けようとも、敷き瓦の上を安全に歩くようなつまらない人生を送るべきではないという意。その後に「美田~」と続く。

いい言葉だと思う。子供のために残した金が生きた例は少ない。おおかた放蕩のすえ使い果たして人生を踏み外すか、残した財産にがんじがらめにされて人生を見失うか、どちらかだ。親の財産の上に自分の人生を積み上げられるような殊勝な子供など、ほとんどいない。