私たちは「有徳」になる努力を惜しむべきではない

その者が理解した「適切さ」は、さまざまな理由を比較考慮し「作り出した」結果かもしれないし、他の理由を退ける一つの理由を「見つけた」結果かもしれない。言動の適切さは、「発明」されたものか、それとも「発見」されるものか、という議論は倫理学上の一大テーマだが、大半の読者には、それよりも次のことのほうが重要だろう。

つまり、その場面での「適切な言動」はある、と私たちが考えている限りは、それを体現する人物となる努力は惜しむべきではない、ということだ。倫理学の古めかしい言い方を借りれば、「有徳」になる努力が必要だ。

この穏当な意見に賛同する読者が、賛同するがゆえに、著名人や公人の言動を気軽に非難するのだとしたら、非難されるべき対象には、自分自身も含まれることに気付かねばならない。

言動が非難される時には、しばしば、「プロ意識に欠ける」と言われる。著名人や公人は、その世界の「プロ」であるから、プロとして、自らの言動に配慮していて然るべきだ、というわけだ。実践的に、どのようにするかはともかく、この指摘が、自分の言動や価値観を自明視するのではなく、反省的になるべきだということを意味するなら、なるほど、軽率な言動は「プロ意識に欠ける」と言える。

市民は「政治のアマチュア」だから責任はない?

桜田氏の発言全体を読めば、何も目くじらを立てる必要はないではないか、という人たちも、桜田氏の発言が軽率だったことは認めるのではないだろうか。その意味では、政治家としての、あるいは担当大臣としての「プロ意識に欠けていた」と言う人もいるだろう。

それでは、私たち自身はどうなのか? 政治家は、政治のプロだ。だから、プロらしく振る舞うべきだ。そう考える人たちの多くは、返す刀で、自分たち自身は政治のアマチュアだとでも言うのだろうか。だから、プロ意識は持たずに、反省的になる必要もないと?

もし、そう考えているのだとすれば、それは見当違いも甚だしい。私たちは、日々政治的な活動に従事するわけではなくても、政治的な事柄に関心を持ち続けるのではなくても、私たちの誰もが主権者だというこの一事において、政治のアマチュアだと言い逃れるわけにはいかないのだ。それだから、「プロ市民」という言い方ほど、民主主義を毀損するものはない、と私は思う。