桜田義孝五輪担当相「本当にがっかりしている」

今回は著名人の「失言」について考えたい。

2月12日、競泳の池江璃花子選手が病気を公表した件について、桜田義孝五輪担当相が「本当にがっかりしている」などと語ったことが問題になった。これに対し、桜田氏の発言は全体を読めば穏当で、メディアの悪意ある切り取りこそが問題だ、という声もあがった。

ここで問いたい。いったい「適切な言動」とは何だろうか。

この問いには、何らかの「正解」がある、と誰もが思う。だから非難もされれば、反省もし、謝罪も撤回もするのだ。しかし、何らかの言動が、その場面で「適切」であることを理路整然と証し立てるのは、思いのほか難しい。

「適切な言動」とは、具体的にはどんな意味か。誰かの気分を害さないことだろうか? あるいは、伝えるべきことを臆さずに言うことだろうか? さもなければ、自分の立ち位置や役割に対する周囲の期待に即すことだろうか? それとも、それ以上の、以外の観点も踏まえることだろうか?

2019年2月14日、衆議院予算委員会でオリンピック憲章を読む桜田義孝五輪担当相(写真=時事通信フォト)

「適切な言動」は、本当に存在するのか

これらのすべてを満たすことができるなら、それに越したことはない。とはいえ、伝えるべきことを臆さず言うことで、誰かを傷つけることもあれば、誰かに配慮するあまり、自分の担う役目や役割を果たせなくなる場合があることは、誰もが経験済みだろう。

私たちは、問題にならなかったからと言って、そこでの言動が、必ずしも「適切」だったとは言えないことを知っている。さらに言えば、「配慮する」ということの中には、婉曲に表現することや、言及しないこと、場合によっては、嘘をつくことも含まれることを知っている。ある人にとっては「適切」でも、別の人には「不適切」だということはあり得る。このように考えると、何かの言動が問題化するか否かはその人の運次第だ、という結論に飛び付きそうになる。誰もが理解でき、納得のいく言動の「適切さ」などは無いのだ、と言いたくなる。

けれども、このように結論できるためには、少なくとも、次の前提を受け入れることが必要だ。つまり、もし言動の普遍的な「適切さ」があるのなら、それを誰もが直ちに理解できるに違いない、という前提だ。

この前提は自明ではない。理解できる人には理解できるが、そうでない人には理解できない、ということだってあるからだ。別の人が「不適切」だと思うのは、その人が、十分に理解できていないだけかもしれない。

ところで、私たちは学ぶことができる。少なくとも、そう信じられている。他者や書物からも、経験からも学ぶことができる。その過程の中で、どうにかこうにか、場面に応じた言動の「適切さ」を理解できる者になるのだとしたら、どうだろう?