善政を行うには良き「補佐役」が必要である

太宗が唐を創建した当初は、戦乱の爪痕や天災による疲弊、国力・財力不足などにより、理想の状態からはほど遠いものだった。少なくとも貞観初年の頃は、平和な時代とはなったものの、民生の回復は一朝一夕にはいかなかった。

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太宗はみずから節倹を旨として、財用のムダ遣いを厳しく戒め、民生の安定に意を用いたことはたしかだが、5、6年くらいで人民の生活が飛躍的に向上したわけではない。実態は、行きつ戻りつしながら、ゆるやかに回復していったのである。

「貞観の治」といえば、古来から太平の世の典型とされてきたが、「貞観の治」を評価する場合、成し遂げられた成果よりも、むしろ太宗と側近たちがどんな覚悟で政治に取り組んだのか、そちらのほうに目を向けるべきなのかもしれないし、そのほうが正しい見方だと思う。

太宗は秦王時代、その幕下に「十八学士」と呼ばれる人材を集めて将来の治世に備えていたが、房玄齢(ぼうげんれい)と杜如晦(とじょかい)はその筆頭格の存在だった。また、魏徴(ぎちょう)と王珪(おうけい)は初めは太宗の兄である太子建成に仕えていたが、建成の死後、太宗に見出された名臣として知られている。

加えて、忘れてならないのが長孫(ちょうそん)皇后で、その明晰さからくる内助の功によって、太宗を内側から支え続けた。

長年苦楽を共にした家臣はもちろんのことだが、太宗はたとえ敵対した人物の参謀であっても、有能な人材だと認めた場合は、何の躊躇もなく自身の補佐役として重用した。それこそが太宗が名君の誉れをほしいままにした最大の原動力だともいえる。これは現代ビジネスの世界でも同じこと。優れた人材を集めて経営に邁進しなければ、企業や組織の前途は決して明るいものにはならない。人材こそ最大の武器なのだ。人脈や派閥などにとらわれて適材適所を怠れば、組織は必ずその力と輝きを失っていく。

トヨタの張氏も前掲のインタビューでこのように話している。

「太宗李世民の明君ぶりを語るエピソードは数あるが、非常に関心させられたのは自分を叱ってくれる部下をたくさん抱えたことだ。彼らに自由に意見を言わせ、諌言に率直に耳を傾けて、なるほどと思えばすぐに改める。リーダーシップを発揮する立場になると、なかなかできないことである」