財政破綻、後継者問題……なぜほころびが生じるのか

24年にわたる太宗の治世は、広く人材を登用し、諫言に耳を傾け、常に緊張感を持って政治に取り組んだ。これは異常な精励ぶりといっていいだろう。史家の評を借りれば次のようになる。「その聴断(ちょうだん)して惑わず、善に従うこと流るるが如きは、千載(せんざい)に一人と称すべきのみ」つまり、1000年に1人の名君だといっているのだ。

しかし、太宗といえども人間。現に晩年になって、悩ましい問題を2つも抱え込むことになった。

1つが高句麗(こうくり)遠征の問題だった。当時の朝鮮半島は、高句麗、百済(くだら)、新羅(しらぎ)の3国が鼎立し、それぞれ唐に朝貢しながらも対立抗争を続けていた。そんな情況のなかで貞観18年(644年)、新羅が唐に救援を求めてきたのをきっかけに、計3回の高句麗遠征を行うこととなった。

この遠征は高句麗の強い抵抗にあい、目的を達しないまま、太宗の死によって中止される。唐としては、何ひとつ得るところがなかったばかりか、いたずらに民力を疲弊させただけで終わった。

即位以来、軍事行動を極力控え民生の安定を優先させてきた太宗が、晩年にこういう遠征に踏みきったことは、名君として「千慮の一失」と言わざるをえない。

もう1つは、後継者の問題だ。太宗は長孫皇后との間に、上から承乾(しょうけん)、泰(たい)、治(ち)と、3人の男の子をもうけていた。そして即位したとき、8歳の承乾を太子に立て、太子教育にも万全を期したつもりだった。ところが承乾は長じるにつれて素行が乱れてしまい、やむなく太宗は貞観17年、承乾を廃して、第3子の治を太子に立てた。しかし、治は温厚さだけがとりえの青年で、大帝国の後継者としては力不足だった。こうした状況にあって太宗の不安は募るばかりだった。

後継者の交替劇まで太宗の責任に帰するのは少し気の毒な気がするが、晩年の太宗にとって大きな悩みのタネであったことは間違いない。そして太宗は、貞観23年(649年)5月、築き上げた大唐帝国の行くすえを案じながら、都長安で死去した。

経営戦略の失敗によって財政力を失ったり、後継者不足で企業の将来が危ぶまれたりすることなどを考えると、唐の太宗も同じようなテーマを抱えていたことがよくわかる。

(写真=iStock.com)
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