「ひとつのことをやり続ける」で普遍へ至ろうとする日本流
しかし、留学経験の成果をそういった「小手先の生きる知恵」のレベルにまで矮小化してしまうと、それはそれで、わざわざ海外に留学させる意味という点では、疑問符がついてきてしまいますよね。海外のこと、異分野・他業種のことについて知見の広い人を有効活用するためには、留学経験者側だけではなく、組織の側にも準備とノウハウが必要だと思います。では、誰がどうすればよいのでしょうか? 「視野の狭い人」が組織の多数派であることが問題であるなら、留学者や出向経験者を増やして「視野の広い人」で分母を厚くすれば解決するのでしょうか。
もちろん、視野の広さの底上げ自体は良いことだと思います。しかし全員を全知全能のようにはできません。ということは、「知らない分野のことでも判断を行えるようになること」が重要なのではないでしょうか
では、どうしたら「知らないことでも評価できる」ようになるのでしょうか。僕が思うに、ひとつは、「自分が知っていることを通じて、普遍的な判断力を養い、転用、類推などを駆使する」という道があると思われます。この道を採るならば、次は、普遍的な判断力、本質を抽象的に理解する力の培い方が論点になってくるわけですが、僕はここに日本と欧米の大きな違いがあると感じています。
「井の中の蛙大海を知らず」の本当の意味
日本には、視野の狭い人を批判する「井の中の蛙大海を知らず」という諺があります。しかし、その先があるという説があります。次には、「されど天を知る」「されど空の青さを知る」と続くのだ、というのです。僕は最初にこれを聞いたとき、おお、なるほど! 深い! と思いました。狭い視界からであっても、ずっと見ていれば、空や天の本質、普遍性の真理に近づくことができる。曹洞宗の道元が言う「(ただひたすら、座り続ければ悟りが得られる)」のような、いかにも禅的思想だな、と思いました。
しかし、少し調べてみると、この諺はもともと荘子の「はって海を語るべからざるは、虚に拘ればなり。は以って氷を語るべからざるは、時にければなり。は以って道を語るべからざるは、教へにねらるればなり」(井の中の蛙に海を語ってもわからない。くぼみの中のことしか知らないからである。夏虫に氷のことを語ってもわからない。冬まで生きていないので知らないからである。ひねくれ者に道義を語ってもわからない。固定観念にとらわれているからである)から採られているようでした。つまり、「されど~」以下は日本で誰かが付け加えたもののようなのです。
視野狭窄の揶揄から、専門性を突きつめて至る神髄や境地を強調する大逆転に持ち込もうというところに、「されど~」をくっつけた人の粘り、視野の狭い側が感じる「視野の広い人からの上から目線」に対する逆襲、「その道幾十年」を重んじるいかにも職人気質の矜持を感じませんか。そういう意味で、荘子に日本の誰かが「されど~」を付け加えたという点まで含めて、なかなか意味深長だなと思います。
こうして、ひとつのことをやり続ける中で普遍に至ろうと考えがちなのが日本流だとしたら、多様な経験を積み様々な発想に触れることで、普遍に至ろうとするのが欧米流だと思われます。欧米では、「多様性が高ければ、発想の組み合わせ数が増え、創造可能性が増す」「異分野からの手法の転用は選択肢を増やしてくれる」「思考方法自体の相違点を掘り下げれば、メタ思考(=考え方を考えること)も促してくれる」と考えるのです。