また、全斗煥はいわゆる「人たらし」型の性格の持ち主で、同僚や部下を大切にし、人心を掌握しました。陸軍士官学校の同期に盧泰愚(ノテウ 後の大統領)がいます。全斗煥は盧泰愚に対しても、一緒に手をつないで歩くというほどの親密ぶりでした。後に、光州事件の責任を問われ、裁判にかけられた時も、二人は手をつないで被告席に立っています。
若い頃からはげ上がり、中肉中背の平凡な容姿で地味でしたが、芯の強さが内面からにじみ出て、感情を表に出すことはなく、淡々としており、周囲から信頼されていました。
全斗煥は人を見る目があり、的確に人材を登用しました。全斗煥の周りに有能な人材が自然と集まるようになり、「ハナ会(ハナフェ・一心会)」と呼ばれる全斗煥の派閥の秘密組織が軍内部に形成されます。この「ハナ会」が中心となり、朴正熙暗殺後、「粛軍クーデター(12・12クーデター)」を起こします。
民主化に理解を示した軍トップを拉致
1979年10月26日、朴正熙大統領が暗殺されると、民主化ムードが高まります。「ソウルの春」と呼ばれたこの時期、金泳三や金大中ら民主化勢力に注目が集まり、人々は新しい時代の到来を予感しました。崔圭夏(チェ・ギュハ)国務総理が大統領職を引き継ぎ、民主化の動きを歓迎し、後押しします。
ところが、こうした動きに危機を感じていた勢力がありました。朴正熙に近かった全斗煥ら軍人たちです。民主化勢力が政権を握るようなことになれば、旧朴派の軍人は暴政の責任を問われ、訴追される可能性が大いにありました。旧朴派にとっては生きるか死ぬかの瀬戸際だったのです。
全斗煥は当時、陸軍少将で、保安司令官を務めていました。保安司令部は軍の秘密警察と諜報機関の役割を担っていました。朴正熙暗殺後、公安関連の権限は保安司令部に集中し、全斗煥は巨大な権限を手中にしました。
しかし、軍内部には旧朴派とは異なる勢力もあり、全斗煥らと対立していました。その勢力とは、軍官僚エリートたちです。「清流派」と呼ばれる彼らは士官学校を優秀な成績で卒業し、軍の実務を取り仕切っており、朴正熙大統領とも距離を置いていました。この軍官僚エリートの首領が、参謀総長(制服組トップ)の鄭昇和(チョン・スンファ)大将でした。
全斗煥派(ハナ会)と鄭昇和派の二つの派閥は、激しく対立していました。鄭昇和は穏健な人物で、民主化に理解を示し、新大統領の崔圭夏とも協調していました。一方で、全斗煥のことは危険視し、彼を排除しようと考えていました。