ハナ会を中心とする軍人らはもはや一刻の猶予もないと考え、1979年12月12日、全斗煥を先頭にクーデターを決行します。この日の夕方、全斗煥の一派は鄭昇和のいる参謀総長公邸を襲撃し、鄭を捕らえます。その際、衛兵と激しい銃撃戦となり、首都警備兵や特殊部隊が現場に急行、大騒動となります。
一方、全斗煥本人はハナ会の幹部とともに大統領官邸に乗り込み、崔圭夏新大統領に鄭昇和の逮捕を容認するよう迫りました。崔大統領は拒みましたが、全斗煥らは大声を出し、大統領を恫喝します。
この間、鄭昇和の拉致を知った鄭派の軍人らは、全斗煥がクーデターを起こしたものと見なし、部隊を動員します。同じ韓国軍の部隊同士が、首都であわや激突という危機でした。全斗煥側は鄭派の部隊の動きを封じるため、偽情報を流して部隊を撹乱することに成功します。最終的に、この闘争を制したのは全斗煥でした。
軍への不信が生む北朝鮮融和策
当時、軍人の多くは民主化に同調していましたが、クーデターが全斗煥ら「ハナ会」に有利に進むのを見て、手のひらを返して「ハナ会」に味方しはじめました。軍人たちはホンネでは、朴正熙時代から続く「軍人天下」を失いたくないと考えていたのです。これら軍人たちの手のひら返しも、「粛軍クーデター」が成功した大きな要因でした。
1979年の「粛軍クーデター」は、1961年の朴正熙らの起こした「5・16クーデター」に次ぐ二度目の軍事クーデターでした。民主化勢力にとって、この二度の軍事クーデターから導き出された教訓は「軍人に力を与えれば何をするかわからない」ということです。一部の軍人だけでなく大半の軍人が、自らの地位を守るためなら法や国のシステムを平気で踏みにじるような潜在的体質を持っていることを、骨身にしみて痛感したのです。
1987年の民政移行まで、韓国では法というものが軍に対して全く通用しない時代が長く続いてきました。その後の文民出身の大統領は、軍を去勢する方策を常に考える必要に迫られています。いかに法を振りかざそうとも軍は統轄できないという懸念を、常に抱えざるをえないからです。
現在のように「北朝鮮の脅威」が強まれば強まるほど軍の存在感は増し、かつての「軍暗躍の悪夢」が復活する可能性は高まります。それを封じ込めるためにも、韓国政府は北朝鮮との融和を必要以上に演出しなければならないのです。
著作家。1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。おもな著書に、『世界一おもしろい世界史の授業』(KADOKAWA)、『経済を読み解くための宗教史』(KADOKAWA)、『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)、『“しくじり”から学ぶ世界史』(三笠書房)などがある。