最近は薗浦氏が2期続けて勝ち続けている。首相補佐官となり政治家として上り調子で、選挙は盤石の態勢を敷いていた。市民連合は、民進党の村越を担ぎ、共産党との共闘が実現する一歩手前までこぎつけていた。ところが民進党が希望の党に合流して事態は一変した。希望の党が選んだ候補者は、元浦安市議の女性だった。村越は立候補を諦め、共産党は独自候補を立てた。これでは選挙にならない。振り出しに戻った共闘を立て直すための「第三の候補」を市民連合は模索していた。
千葉5区で共闘を実現させ、リベラルの崩壊に歯止めを掛けたい、という市民の期待は理解できる。だからと言って、私が選挙に出る、というのはむちゃな話だと思った。
「大勝負は2019年か2020年にある次の選挙だろう。それを視野に入れて若い候補を育てることを考えてみては」と話し、お引き取り願った。そういう候補が見当たらないから、私を訪ねてきたのだろう。このままでは市民連合は「不戦敗」になる。
前日、希望の党の小池百合子代表が「民進党から来られる方々を全員受け入れる考えは、さらさらありません」と語った。中央政界では民進党の危機をバネに、枝野幸男氏らが立憲民主党を立ち上げた。
市民会議の声を尊重し地元から立つ
私への出馬要請と立憲民主の立ち上げは同時に進んでいた。幹事長になった福山哲郎氏から「立憲民主から立候補を」と要請があった。市民連合から話があった時は、「共闘のため無所属で」だったが、状況が変わり、立憲民主党に話が回ったらしい。
「東京の選挙区から出てほしい」というのである。出来立てほやほやの立憲民主党は候補者が足らないようだ。「選挙に出るなんて簡単に決められません」と断ると、「東京の比例区2位で出て、選挙区の候補者と一緒に遊説するというのはどうでしょう」と提案された。当選を目指すのではなく、安倍政治に異を唱える運動に加わってくれ、というお誘いと解釈できた。これくらいなら手伝えるかもしれない、と思った。
私は昭和23年生まれの団塊の世代だ。われわれが生まれる前、日本は300万人が死ぬ戦争があった。その反省から新憲法ができ、私たちは、戦後民主主義と平和の中で育った。ところが、われわれが企業社会にどっぷり漬かっているうちに日本の雲行きは怪しくなった。こんな政治を子や孫の世代に残して死ぬわけにはいかない、と思う。枝野氏たちが立ち上がった。なにか自分もできることはないか、そんな風に考えていた。
友人たちは「いまさら失うものはない。思い切ってやってみろ」と背中を押した。私が推されたのは、ジャーナリストとして身に着けてきた経験や識見が買われたのだろう。朝日新聞で定年まで経済記者をやり、財政や金融、産業界の記事などを書いてきた。ロンドン特派員やハーバード大学留学など通じ、日本を外から見る機会もあった。