一通り、伊良部に関する質問をした後、的場のタイガース時代の話になった。
彼が入団したときのことをぼくは良く覚えていた。
祖父母が阪急電鉄沿線に住んでいたこともあり、もともと、ぼくは阪急ブレーブスを応援していた。70年代のブレーブスは渋く強いチームだったのだ。ブレーブスは次第に輝きを失い、緩やかにタイガースを応援するようになった。1980年5月1日、ドラフト1位で入団した岡田彰布の初ホームランを甲子園で観たのはいい思い出だ。
世界中どこでも同じだが、クラブへの熱狂は地域愛と結びついている。タイガースファンの中心は阪神甲子園球場である。そこに近ければ近いほど、タイガースとの結びつきは近いように思える。尼崎出身の的場はタイガースファンが待ち望んでいた、地元のスター候補だった。
そんな話を振ると、的場はぽつりと呟いた。
「ぼく、人間不信になってましたね」
「少し鬱病みたいになっていました」
タイガースにドラフト1位として入団後、報道陣に追い回され、的場は追い込まれていたという。
「寮とかクラブハウスにスポーツ新聞が全紙置いてあるから、みんな見ているんですよ。ちょっとでも名前が入っていると、んっ、と見てしまう。それで他愛のないことでも、こんな風に思われているんやとか。そのときは何ともないけど、ふとしたときに、これやったらどんな風に思われるんやろって。調子のいいときは何にも気にならない。落ちていると、前、叩かれたなあって、思ってしまう」
野球をかじったことのある人間は誰しも、ドラフトで指名されることを一度は夢みたことがあるだろう。その中でもドラフト1位は特別だ。ドライチというのは、選ばれた特別の人間である。その中身は多感な18歳、あるいは20代前半のこわれやすい生身の青年であるのだという当たり前のことに気付いた。
「人と会いたくないなって。今から考えると少し鬱病みたいになっていましたね。寮に住んでいたんですけれど、みんなと顔を合わせたくないから、朝早くとか夜遅くとか、人がいないときに風呂に入ったりとか。誰とも会いたくなかった。(球場や練習場でも)まずマスコミがいるかどうか見る。そしておらへんなと思ったら、ばーっと帰る。すごい感じの悪い選手やったと思いますよ、当時」
最初にメディアの“洗礼”を受けたのは、ドラフト会議の直後、99年12月15日のことだったという。この日は、ドラフトで指名された8選手が甲子園球場と合宿所を見学した。