日本からの差し入れ品の小包は刑務官たちによって横流しされ、劣悪な食事や不衛生な環境で腸チフスなどの病気も多発。まともな治療も受けられずに病死したり、精神の平衡を失った状態で日本に強制送還された人もいました。まさに収容所は「この世の地獄」だったのです。
「日本叩き」で信任回復を狙う
李承晩ラインはなぜ、突如引かれたのでしょう。1952年、朝鮮戦争は膠着状態に陥り、アメリカとソ連との間で休戦交渉が行われていました。李承晩は北朝鮮への徹底抗戦を主張しましたが、アメリカは耳を傾けようとはしません。
韓国軍は北朝鮮軍にやられっ放しで、軍事的成果はほとんど上げられませんでした。焦った李承晩は、スパイ狩りの名目で「保導連盟事件」をはじめとする自国民の大量虐殺という愚挙に出ます。朝鮮半島を武力で統一すべきだという李承晩の主張もアメリカに拒絶され、政権の信任は地に落ちていました。
起死回生を図った李承晩は、日本を叩き、それを喧伝することで、国内世論を自分に有利に誘導しようとしました。そして、李承晩ラインとともに、竹島の領有を一方的に宣言。竹島に警備隊員を常駐させ、今日まで続く不法占拠を始めます。
日本はこのときアメリカ軍の占領下にあり、国家主権がないために韓国に対抗する手段がない状況でした。李承晩ラインの宣言は、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本の主権が回復する直前のタイミングで行われたのです。
アメリカ政府の却下も押し切り
とはいえ、李承晩ラインが国際法上、違法であることに変わりありません。サンフランシスコ講和条約において、日本は「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」を放棄しました。この中に、竹島は含まれていません。李承晩はこれに抗議し、日本の放棄地に竹島を含めるようアメリカに要請しました。しかしアメリカ政府は、いわゆる「ラスク書簡」で「ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある」(*1)と記すなどして、その要請を却下しています。