日本は古くから、竹島を漁業の重要な拠点とし、地図や文献に記載してきました。江戸時代初期の1618年、幕府は鳥取藩の漁民に、竹島近海の漁業を認めます。幕府が鎖国令を出した時にも、竹島は自国の領土として渡航禁止の対象にはならず、漁業が続けられていました。

韓国の古文書に、竹島(韓国側の呼称は独島)の記述は見られるものの、行政権や領有権が及んでいたとする内容は見あたりません。

明治時代の1905年、日本政府は竹島を島根県に編入することを閣議決定しました。同時に、隠岐島の住民の要請を受け、明治政府は竹島を隠岐島庁の所管とします。

韓国政府は「1905年の第二次日韓協約により、主権を日本に奪われ、竹島も奪い取られた」と主張しています。韓国側が竹島問題を「日本の帝国主義の始まり」とする理由、そして、「竹島が韓国領である」とする理由がここにありますが、1905年の閣議決定や日韓協約を経ずとも、前述のように、17世紀の江戸幕府が既に竹島を自国の領土としていたのであり、韓国側が主張するような明治政府の帝国主義政策とは関係なく、竹島は元々、日本の領土であったのです。

漁船員の損害は日本政府が補償した

1963年、朴正煕がクーデターで大統領に就任した時、韓国経済はどん底でした。政府は経済を建て直すための予算すら確保できませんでした。朴正熙は日本の資金に頼るため、日本との関係を見直しはじめます。

1965年、日韓基本条約が結ばれ、国交が正常化しますが、竹島問題は棚上げにされました。日本は韓国政府に総額8億ドル(無償3億ドル、政府借款2億ドル、民間借款3億ドル)を供与します。これは当時の韓国の国家予算の2倍以上の額でした。この巨額の支援金を使い、韓国は「漢江の奇跡」といわれる経済復興を遂げます。

日韓基本条約に付随する形で、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(日韓請求権並びに経済協力協定)」も同時に締結されました。日本が韓国に経済支援を行うことで、この協定の署名の日までの両国及び国民の間での請求権は「完全かつ最終的に解決」されるという内容でした。つまり、両国はこの協定によって、戦時中などに生じた事由に基づくいかなる請求も認めないとしたのです。