段ボール業から梱包サービスへ
ワコンの前身は、1951(昭和26)年に西田の父、泰三が創業した和歌山梱包という段ボール製造会社である。通称の「和梱」から社名をワコンに変えた。和歌山梱包は安定的な収益を上げていたが、西田は家業にあまり関心がなく、大学卒業後、旭硝子に入社した。
「定年までサラリーマンをやってから、いずれは実家に帰って継いでもいいかなという程度の考えしか当初はありませんでした」
6年間勤務後、東京の子会社に課長として出向、その後、仙台のガラスメーカーに営業部長として出向した。この会社は旭硝子の関連会社ではなかったが、取引関係が長く、東北で一番の独立系メーカーだった。
「ここで営業部長を担当し、初めて中小企業の経営や社長業は面白いと思ったのです。さっそく家業を継ごうかと、その会社の社長に相談すると、もうしばらく待てというので、とりあえずその場はとどまり、旭硝子に戻って香港支社に異動しました」
香港支社には副社長として赴任し、後に社長となって4年間勤めた。
「社長と言っても、実質は営業所長。いちいち本社におうかがいを立てるのが嫌になり、自分で商売をしたいと思うようになりました」
西田は家業を継ぎたいと真剣に考え始めた。そのとき、実家はワコン段ボールとして営業していたが、父の泰三は西田が小学生のときに早世し、父の兄が社長を継いでいた。母も常務として関わっていたが、経営権は伯父が握り、株式も両親と同程度保有していた。
2002年に西田が36歳でワコン段ボールに帰ってきても、当然ながら歓迎されず、主導権争いとなった。西田は親戚を回って協力を要請し、過半数の株式を握ると、伯父と交渉して会社の分割を提案し、2005年に分割。2008年に株式を交換して、ようやく経営権を確立した。このとき、社名をワコンに変えた。
当時、社員は50~60人で、売り上げは約7億円と安定していたが、西田は段ボール製造だけにとどまるつもりはなかった。
「このままでは段ボールメーカーの大手に飲み込まれるという恐怖感があり、新しい事業を始めるしかなかったのです」
西田は伯父と経営権を巡る争いをしながらも、2003年から2つの事業を始めている。ひとつはプラスチック製段ボールの製造だ。段ボール一筋の社員は反発し、「社長は段ボールのDNAがないから、そんなことができるんだ!」と陰口を言われた。
もうひとつは梱包サービス。在籍している社員だけでは始められなかったため、新たに人を採用し、手探りで前に進んだ。幸い、近隣にあった大手製造業がリストラで解雇を進めていたので、すぐに2人のエンジニアを確保することができた。現在、彼らはワコンの商品やサービス開発の中核メンバーになっている。